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泣きたいのは私のほうだ。(写真・時本景亮さん)

泣きたいのは私のほうだ。(写真・時本景亮さん)


鳥取市本町一丁目のギャラリーあんどうで「魚の悲しみ」
という絵を観た帰り道、みずいろの自転車を盗んだ

西の空はやけに遠く、しろく、川はひたすらひかりのつかみどころなさを
つかみそこねている、たとえば水底にしずんだ橋桁のことなど
「はじめて親に買ってもらった自転車の名は〝ソクラテス〟だった。」というと、
「泣きたいのは私のほうだ。」と彼女は明るい

(鳥がしずかに嘴を落とす川面に僕たちの影が重なる一瞬、
それはまぎれもなく一匹の魚、一匹の魚の悲しみだと思った)

すこやかに葉を捨てたケヤキが街路にずらっと並んでいて、〈空き地あります〉とか、
こうばしいパンのにおいとか、話題はたくさんあるはずなのに、
この歯切れのわるさ、しかたなく立ち上がってペダルを踏みこめば、
「泣きたいのは私のほうだ。」と彼女は明るい

(みずからの重さに負けておぼれてしまうだろう魚の悲しみは、
問われればすぐにでも応えられるはずだった)

駅で盗んだ自転車を別の駅に置くこと、しかもはじめからなにもなかったように
やや車輪をかたむけたまま、いつものように手をふって別れる手前で、
「月がとってもきれいだね。」というと、
「泣きたいのは私のほうだ。」と彼女はどこまでも明るい


(「鳥取文芸選集第44集」収録作品)



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