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小島きみ子さん詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』(DTP 工房Boojum!/二〇一八年一月三十一日)を読む

〈朝陽が当る台地では、/ブルーベリーが豊かに実り、/そのひとは やさしく微笑んで、/(喉がかわかないように 摘みながら食べるのよ)/と、教えてくれた、/ほんとうの姉のような親しさで、/それでいてどこかとても遠くて、/籠がブルーベリーで一杯になると、/寂しそうに俯いた。〉(「6 (ブルーベリーの丘で)」冒頭)
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 ひさしぶりに詩にふれた気がする。じつは、きのうも、おとといも、だれかの詩集を手にとってみてはいたものの、詩にはふれていなかった、ようにおもう。ぼくにとって、詩にふれることは、もっとも純度の高いことば(=精神性)によって奏でられなければ意味がない。小島きみ子さんの詩は、匿名のだれかではなく、いま、めのまえにいる〝あなた〟にむけてさしだされる、ことばの贈りものなのだ。だからこんなにも――たましいごと――ひかれてしまうのだ。
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〈夏草が朝風/にそよいで、/花びらのような/茶色の蝶が、/羽化したばかりで音符のように舞っていた。/(わたしの家にきますか? )と訊ねたすぐそのあとで、/悪い事を思いだしたように(もうかえらなくちゃね)と言うのでした。〉
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 ときとして、なによりもいとしいひとの名前のようだ、とおもう。こころのなかでいとしいひとにほほえんだり呼びかけたりするように、この詩行をそっとくちずさむ。なんどもなんどもくちずさんでいるうちに、ずっとむこうのほうであなたにほほえんだり呼びかけたりするまぶしいひとがいる。
 あなたはとっさに手をふってこたえながらも、もっともいとしいのは、やはりこの詩人のことばだ、と気づくはずだ。
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〈あそこまで送ってあげるからと、/川の淵までくると、/なんども深いお辞儀をして、/台地への坂道を上って行くのでした。〉
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 ほんとうの〝わたし〟とはなにか。いったいどこにいるのか。なりたいじぶんになれないのがもどかしいのではない、なりたいじぶんがわからないからもどかしいのだ。ぼくも、あなたも、匿名のだれかでなければ群衆の一部でもない、完璧な一個の存在、である。
 社会の秩序や慣習、規律や制度にしたがい――ときには、あらがい――ながらも、あなたはつねにあなたであろうとしている。
 詩人の詩は、あるいは樹間からこぼれでるつきあかりのようなものかもしれない。ひとりひとりのなかの、ひとつひとつのつきあかり。
 だから、詩人は、ほんとうにうつくしいものは、肉眼よりもむしろ心眼によって、こころの内側に照らしだされるものだと信じている(信じて、書く)。
 そして、それはまちがいなく、あなたが積極的にとらえたがっている〝ことば〟だ。
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〈白い夏のセーラー服を着て髪を三つ編みにした姉、/あのときあの人は、/ブルーベリーを摘みながらなにかを尋ねたのだけれども、/わたしの周りにはたくさんの茶色の蝶が舞っていて、/蝶の写真を撮ることに夢中で、/彼女の声を見失っていた。/たった一度きりの 遥かな、/時間を超えてやってきてくれた姉だったのに、/もう あの雲の上まで行ってしまった。〉(後半)
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 意識的にも無意識的にも、身体的にも精神的にも、ぼくたちがよりどころとしているのは〝ことば〟なのではないか。〝ことば〟のなかには生者もいれば死者もいる。過去もあれば未来もある。かなしみもなつかしさもせつなさもみな〝ことば〟だ。最高に純度の高いものはここでねむりながらもすでに目覚めているのだとおもう。しかし、この、おのおのの〝ことば〟を目覚めさせてくれる詩人はそう多くはない。すぐれた詩人の詩にふれることで、ふいに、においたつように意識にのぼってくる〝わたし〟の気配がある。その瞬間を、すなおに幸福と呼んでもいいのかもしれない。
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 そう、詩人の詩にふれることは、あなたが〝わたし〟を知る手段なのかもしれない。だからこそ、ぼくたちは詩集を手にとってしまうのだ。一瞬にしてここではないどこかへいくこともできるし、ゆうぐれの深さまでもぐりこむこともできる(おさないころに膝をかかえじっと息をひそめて隠れていたところにも)。
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 小島さんの詩にふれるたびに、いっこうに帰ってこなくていい、とおもう。それはこの詩のなかに――できうるかぎり――ひたっていたいからであり、〝わたし〟のなかでねむりつづけたいからでもある。現実から逃げることでもなければ、はなれることでもない。むしろおのがたましいと対話することだ、生そのものにふれることだ。
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(ひとはけっして絶望的な存在ではないのだと――)
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 うつくしさとは、あるいはことばや精神のふるまいの様式から生まれるものなのか。ぼくたちはいったいどこまでこのじぶん自身にたどりつくことができるのか。
 ぼくはきっと、これからもこの詩集を読みつづけるだろう。
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 本詩集は、それぞれ行分け詩型と散文詩型のパートにわかれている(弁証法的構造、とでもいえばいいのだろうか)。交互に読みすすむことで、「詩」と「論」のあいだをいききすることで、身体をも乗り越えようとするこころみがあるようにおもう。あるいは、どのページからはじめても、たましいの契機にふれていくよう造形されているようにも。
 そして、その弁証法的こころみが感動的なまでになだれこんでいく場所といえば、まちがいなく、このわたしのなかへ、だろう。
 この詩集は、だから、あなたのための一冊なのだ。
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〈そして、/(夢の中で夢見たものは)/銀杏の木の下で、/死ぬにはもってこいの小春日和でした。/(立冬ですね)/あなたの柔らかな声が、そのことばが、去りゆく夜のユリの舌であったとは、/やはりあなたは、覚めて、冷めていく冬にふさわしい。/(夢の中で夢見たものに)/(夢の中で願ってものに)/私の言葉が追いつかないのです。/木枯らしが吹く前の穏やかな土曜日でした。/あなたの凛凛と響く声を見ていました。/澄んだ空を覆い尽くす金色の漣でした。/愛し続けるというこの烈しい緊張をこえると、あなたは居るのか、/居ないのか。あの雲をこえて、〉(「10 (夢の中で夢見たものには、追いつきはしなかった)」冒頭)
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 なお本詩集の行分け詩型のパートは全篇「下揃え」になっている。詩人小笠原鳥類さんの表紙画・扉絵もいい。ぜひ手にとってみていただきたい。
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 素晴らしい詩集を、ありがとうございました。
 感謝を込めて――。


小島きみ子さん詩集『僕らの、「罪と/秘密」の金属でできた本』(DTP 工房Boojum!/二〇一八年一月三十一日)

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