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松尾真由美さん詩集『花章―ディヴェルティメント』(思潮社刊/二〇一七年二月二十日)を読む

 装丁にはもうすでに〝予感〟がある。未知の感情に魂を揺さぶられるであろう予感である。呼吸を整えながら、わずかにその予感を迂回しながら、思いきってページをひらく。やはり、予感は的中していた。

〈明るいところと/暗いところ/ひとつの花もそのように分断されて錯綜する/ことばはつねにあやうくあるので/意味や情報その他の動静/不安定になるのだった/捩れながら伸びていく葉の/先の不穏を感じつつ/だからこそ紅もみどりも黄みどりも/語りえない領域へと戻っていく気配がある/寡黙であって寡黙ではない/そんな秘めやかな佇みの麗しさ〉(「陰と光と佇立の花と」前半)

 ことばのイメージはつねに適切で格調高く、せつない予感に満ち満ちている。読み手の「読む」行為がおのずと重ねる厚みを、かえってときほぐすかのように――森美千代さんの花の写真もよりそって――いまにも行間からなにか〝しずけさの群れ〟のようなものが舞い上がってきそうだ。(それはしろい蝶かもしれない。しろい花びらかもしれない。あるいは……)

〈うしろから/波の音が/聞こえてくる/静謐なその航行へ/希いがとどけば/枝はのびる/すでに影を持たないものの/瞳のような細いしなりを/純愛の形骸として/葬ることはできないから〉(「しなやかな緯度の磁力」前半)

 はなされて、なおもみずからはなれていく、そんな感覚がある。そんなめまいがある。波の音が――ありそうでありえない声が――ずっと聴覚をくすぐるが、足もとまで押し寄せることはない。ぼくはひとりの読み手として詩を、文脈を追いつづけるうちに、いつのまにか視線そのものをも逸している事態に気づく。そしてそれはせつない、あまりにもせつない気づきだ。

〈誰がわかってくれよう/蕾から曝される/その無残な湿度/風が吹いて/水はながれて/漂流する小舟の形で/来歴を消していく〉(「わずかに剝がれる逸話のように」後半)

〈来歴を消していく〉――その前にぼくは「消えないでほしい!」と松尾さんのことばの来歴にふれる。現代詩は、ときには素性の知れないことばの、その変容性にとまどうこともあるが、なぜか松尾さんのことばには〝せつなさの気づき〟がある。固有名詞をゆるやかに迂回しながらも読み手の想像を喚起し揺する。そう、まるで濡れないしじまの枠にたまったほこりを、ゆびのさきではらうように、しなやかに。動悸が目覚める。深呼吸。

   *

 あったことも、ありもしなかったことも、花びらは「その記憶」をよそおう。いくども結び直されるはずの記憶の糸とともに――。

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 たとえば松尾さんは〈錯視と錯誤が錯覚へと/あまやかに膨らんで/足許などなかった〉(「稜線、逸れていく花頸の」部分)というように、ことばの視覚性や意味性や音律をすこしずつずらしながら――(声と声、まなざしとまなざしをむすぶものの底へしずむためにゆるやかに声やまなざしをそろえながら)――読者の感性や感覚や感応を研ぐ。境界が溶けていくような、そんな語りのリズムや行の展開、読み心地は、ぼくがなにものであるかということさえも忘れさせてくれる。いや、忘れるのではない、のかもしれない。むしろ、ぼくはいま、表現しているのかもしれない。詩を。ことばを。

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(そう、詩を読むことは、読むことそれ自体が〝表現〟である。読者は「読者」という名の、ひとりの〝表現者〟なのだ。それはまちがいなく詩人の詩と響きあう。ありえないほど清潔で対等な関係だとぼくはおもう)

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 ページをめくっているうちにこのまなざしが――まるで維管束を伝って雌しべにたどり着くように――そのもののまなざしのなかに出る。ここは、なににもましてあかるくて、ほかのものに置き換えられる修飾はひとつもない。風が吹くと、けざやかに色彩がはばたく。
 そのもののまなざしはどれほど純粋であるか、ぼくは知らない。かたちのない季節とあいさつをかわす。ふりむかないことを約束して。そしてまた、まなざし、をそろえることを条件に。
 生活をもたない植物や生きものたちの、もっともうつくしいいとなみを見つめながら、ぼくのまなざしはだれかのまなざしとむすばれていく。
 まなざしとまなざしをむすぶものの底にしずんでしまったあとも。確実に。

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 蝶の役割は耳打ちです、と、だれかが言った。

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〈そして/切り落とされたのは/花なのか茎なのか/求めることで/剝いでいくもの/譲渡をこばみ/あらたな孤独に/白い影をかさねていく〉(「軽やかでありたくて」前半)

 この精神の香り高い一篇は最後に〈どこかで身体が/閉じて開いて/羽を象り/ひるがえる〉と結ばれるが、「身体」とはこんなにも自由ですこやかで、軽やかな可能性を秘めているのだろうか。
 しずかにふるえながら鱗苞が剥がれ落ちるのを待つ蕾のその存在性をも浮き上がらせるような、ことばでは決してとらえきれないものの正体をたとえば〝まなざしの文脈〟で迫ろうとしているかのようなあざやかな松尾さんの詩と森美千代さんの写真は、おたがいの定住性と漂流性をときにはよりそわせながらときには拮抗させながら、見事に語ってしまったのだ。

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(語ってしまえばほどかれてゆく蕾たちを……)

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 語ってしまえばほどかれてゆく蕾たちを詩的な、永遠的な〝円環の線〟にそわせるためには、きっとここにあることばや文脈をそのまま、まるごと承認しなければならないのだとおもう。承認、あるいは松尾さんの詩に――痛切に――身をゆだねること。行間と行間の、そのあわいでまばゆいばかりの立ちくらみを惜しみながら、たとえば、蝶の役割は耳打ちです、なんて、だれかが言うと、あなたは、署名なんてしたくないのね、とこたえて、ちいさくわらう草や花……。その円環のなか――もっといえば、「昨日は会えてよかったです(本当は会いたくなかった)」とか「今日は会えなくて残念です(本当は会いたかった)」という自然のいとなみ――にはいとしくも、いとしさをこえたうつくしさがある。ぼくはこのうつくしさこそ永遠だとおもう。

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 この世のものとはおもえないまでに洗練された、うつくしい詩集をありがとうございました。

松尾真由美さん詩集『花章―ディヴェルティメント』(思潮社刊/二〇一七年二月二十日)

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