FC2ブログ

記事一覧

白島真さん詩集『死水晶』(七月堂刊/二〇一七年)を読む

〈私がこの世に生まれるやいなや、私の影は存在し始め、私と共に成長してきた。しかし、それは、私の死にあたってはどうなるのであろうか。私と共に土の中に葬られるのか、あるいは、主人から初めて自由を得た奴隷のように、自由にどこかに飛び去って行くのか、あるいは、影は影の墓場をもつのであろうか。いや、影はその主人と異なり、光の存在にともなって消失したり再現したりを繰り返しているように、死と再生を繰り返しているのであろうか。〉(河合隼雄著「影の現象学」、講談社学術文庫、p10)
   *
 詩人のまなざしは、ひとすじの光なのだろうか。その光が原稿用紙の上のことばに影を孕ませる。その影がすこしずつ、しかし確実に、行間に流れ込んでいく。やがて沼をつくる。おぼれてしまうほど深く、悲しい沼を――。

「遠くで/わたしを手招くものがある/そのとき 窓ガラスの向こうで/ひとりの死者は ゆっくりと起きあがる」(「死水晶」一連)

 まなざしは原稿用紙の升目の底を浮かんでは沈み、沈んでは浮かびながら、生と死の狭間を行き来しながら、ときには詩人の肺を圧迫させる。凍える喉。影が喘ぐ。手は止まり、口は口ごもる(まるで終わりのない柵のように……)。
 詩作、そのとき詩人は限りなくおのが影と隣接している。ふいに、この身をまるごと原稿用紙の向こうに――おぼれてしまうほど深く、悲しい沼の底に――差し出してしまうこともあるだろう。たちまち「ここ」から「そこ」までの距離を逸し、そのために訪れた、あまりのしずけさに鼓膜は破れる。原稿用紙の升目は柩のようにさびしく、ひややかで、それでもなお詩人は影の消息を呼びつづけるしかない。聴くことのできない影の声に耳をすますしかない。いや、そもそも、聴くことのできない影の声に耳をすますことは――それこそ詩人の姿勢ではないか。白島さんはきっと、そのことに自覚的なのだ。

「影のように覗きこむ者がいる/死水晶のきらめき に憑りつかれた/もうひとつのわたしのかげ」(同三連)

 しわの寄った眉間。まぶたの、かすかなふるえ。きしむ背骨。耳はなにを聴き、口はなにを叫ぶのか。この身を引き裂くほどの叫びをさけぼうとすれば、煙草のにおいに一瞬、腐臭を嗅ぐことはないか。ふと窓の向こうを見やり、鳥の飛跡を追うこともあるだろう。詩作、その行為に指針はなく、海図もない。いつ終わるともしれない、はてしない航海である。
 白島さんの影が、つぎつぎに原稿用紙のなかに――行間と行間の、さらにその狭間に――飛び込んでいく。原稿用紙からはね上がる水しぶきや泥しぶきを浴びながらも、必死でことばをつむぐ。行間と行間の、さらにその狭間に、〝影の顔〟が映り込んでいないか眼を凝らす。
 あまり前かがみになってしまうと、個別の影が、個別の痛みが、みずからの影におおわれて見えなくなってしまう(みずからの影がことばを邪魔するのだ)。白島さんは椅子の背にもたれかかることはあっても、原稿用紙の上におおいかぶさることはないのではないか。あるいは――原稿用紙の上におおいかぶさりながらも、決してまなざしは閉ざさない。たとえ煙草の煙が眼に入っても、白島さんはまばたきひとつしない。それでいて、どこまでも――〝死〟をも内包した――〈出来事〉を〝肉眼〟で視ているような、〝肉眼〟で沈み込もうとするような、そんな試みの痛切さがある(確実に、ある)。まなざしは「見る」から「視る」へ――。白島さんはつねにおのが影と向き合い、肉眼で、そして全身で詩を書くのだ。
   *
(……全身で詩を書きつつも、ふいに頬を撫ぜる風に気づくことができる。視線はときに星を探すようにやさしく、耳は雨音を、その一粒ひとつぶの音を聞きわけられるほど繊細である。……)

「いま ぼくの影は膨らみすぎて/誰との距離をもたなくなった/影が距離を埋め尽くした分だけ/ぼくは ひっそりしている」(「影」二連)

 白島さんにとって「まなざし」は〝行為〟であると思う。「まなざし」を〝する〟こと、すなわち〈まなざす行為〉。それはときとして闇を照らす光となる。冒頭の〈詩人のまなざしは、ひとすじの光なのだろうか〉――というのは、つまりそういうことである。その光は、希望である。まちがいなく。

「ひっそりしていると/影はもといた場所で/さらに月の翳に入ろうとする」(同終連)

 それにしても、詩人はいつ詩を書くのだろう。そして、詩を書き終えるのだろう。
 影のなかの叫びが、あるいはそのあとのしずけささえもがふと鳴りやんだ瞬間、白島さんはそっとペンを置く――パソコンを閉じる――のかもしれない。
 しかし、本当にそれで詩は完結したのだろうか。
 影はまだ、叫びつづけているのではないか。
 このしずけさは、このしずけさこそが、叫び、なのではないか。

「積乱雲を追って/暗い翳つくる地平を疾走するものがあった/川の古い祠の霊気を吸って/星辰のゆらぎを皮膚に烙印するものがあった」(「雪豹」一連)

〈叫び〉をつかまえなければ――もっといえば、〝生け捕り〟にしなければ――詩は生まれない。しかし、〈叫び〉とはなにか。たとえ〈叫び〉の正体がわかったとしても、本当につかまえることなどできるのだろうか。

「本当だろうか/ふたたび みたび積乱雲を追って/歴史のあらい息づかいに刃向かうように/おまえが生きて咆哮したことは」(同七連)

 雪豹は、まるで叫びそのもののように――非言語のように――うつくしい。非言語、それはあるいは詩人の憧れかもしれない。ことばを、意味をもこえたところにあるものを、かぎりなく声に近く、それでいて、声にはおさまりきらないなにか――。
 詩作の、そのずっと奥の方を疾走する雪豹と、みずからの影が痛切に重なり交わるとき、叫びはさけばれるのか――。
   *
 白島さんの詩には、そのなかの影や叫びがどっとあふれ出る瞬間がある。その瞬間、どういうわけか僕はひどく安心するのだ。
 僕は、しらずしらずのうちに血を流していたのかもしれない。その傷口を、白島さんの詩のなかの影や叫びがふさいでくれるのかもしれない。それは詩人自身のもうひとつの肉体、もうひとつの精神なのかもしれない。


白島真さん詩集『死水晶』(七月堂刊/二〇一七年)
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント