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響けよ、愛しのブンガク(十九)


       十九

 空港で千明を見送って……ブンガクがいなくなって……猫を引き取って……。
 五年――五年も経ったのだ。
 あの日、わたしはブンガクを痛めるだけ痛めつけた。そしてその翌週に、こっそり様子を見に行ってみると、橋の下の、黄色いぼろぼろのテントはきれいさっぱり撤去されていた。ブンガクの姿もどこかへ消えてしまっていた。
 死ね。そうつぶやいて、足もとの小石を蹴ったのだ。
 その後、わたしはブンガクの存在しない空間の一切に苛まれるようになった。パン屋で働いているときは「もうこのお店のパンをブンガクに食べさせてあげることができないんだな」と思ったり、例の川辺に行っては暗くなるまで歩き続けたり、小学校に電話してブンガクの消息を知っている人はいないか調べてみたりしたけれど、結局ブンガクの居場所はわからなかった。そのくせ、日増しにブンガクの影は強くなっていった。ブンガクの影は、さまざまなところにあった。公園の切り株のベンチ。地球バスの中。橋の下の、テントがあった場所。ブンガクがいないことを意識するたびに、彼の影はわたしをせせら笑うのだ。ブンガクはもういない。捜しても無駄だ。おまえ、捨てられた――。
 ちょうどそのころ、年末の宝くじで百万円が当たった。わたしはひそかに宝くじを買い溜めていたのだ。もしも当たったらブンガクにあげて少しでも生活の足しになればいい、そういうふうに考えていたのだ。
 百万円、当たったには当たったが、しかしわたしの目的は達成されなかった。肝心のブンガクが、いないからだ。
 仕方なく、お金は川へ流すことに決めた。持っていてもなんだか悲しい。使い道もこれといってない。だったらいっそのこと川に流して、橋の下でテント暮らしをしているかもしれないブンガクのもとに届けばいい。
「思い立ったら即行動」が信条のわたしは、早速川へ行った。百万円の帯紙を外し一枚一枚、届け! 届け! と、願いを込めて川に捨てていった。
 気づけば、わたしは相当、深手を負っているようだった。
 ただ、小学校時代の教師と再会しただけのことなのに。相手はアラブの石油王でも、大企業の御曹司でも、テレビに呼ばれるような著名人でもないのに。
 なのに――どうしてこんなにもとめどなく涙があふれるのだろう。
 わたしはむきになって両手でごしごし両目をこすった。自分がこんなにも泣き虫だったなんて初めて知った。
 ブンガクに会ってから、なんだか泣いてばかりいる気がする。
 ――もったいないにゃー。
 背後から声が聞こえた。振り向かなくてもわかる。わたしは一万円札を川に捨てながら、
「何よ」
 と、つっけんどんにあしらう。
 ――お金を捨てるなんて、もったいないにゃー。
 虎縞の猫が足もとにやって来た。
 ――できればそれで魚を買ってほしいにゃー。
「ていうか、なんで語尾が『にゃー』なのよ。前はそんなこと、言ってなかったでしょ」
 ――アニメというやつを観ていたら、猫がそう言ってたんだ。かなり驚いたよ。
「それはただ、人間がイメージで面白おかしくデフォルメしてるだけよ。あんたは実際、猫なんだから、語尾に『にゃー』なんてつけなくてもいいの」
 ――にゃー、をつけない自分の方が、もしかしたら異常なのかと思っていたところなんだ。教えてくれて、ありがとう。
「ていうかあんたも十分異常よ。そもそも普通の猫は、人の言葉をしゃべったりしないの」
 ――なるほどね。どおりで他の猫とコミュニケーションしづらいはずだ。
「ねえ、わたしのこと、ばかにしてるでしょ?」
 猫は目を見張る。
 ――心外だな。ぼくはいつも、きみと話すときは真剣さ。
「ふうん」
 わたしは最後の一枚を川に流すと、
「もしよかったらさ」
 その場で思ったことを口にする。
「わたしの飼い猫になってみない?」
 すると、猫はゆっくりと肩をすくめた――ように見えた。
 ――ぼくはずっとその言葉を待っていたんだ。
 そしてわたしはコンビニでキャットフードを買い占め、猫を抱いて帰宅した。その夜、わたしはビールを飲みながらブンガクへの愚痴を言いつのった。猫は、からからと笑ってうまく聞き流してくれた。
 それからというものわたしは、ことあるごとに猫にブンガクの愚痴を聞いてもらい、哀しみをどんどん放出するようになった。ひと月経つころには、わたしの精神は健全なまでに回復した。猫様様、である。ありがたや、ありがたや。
 しかし、だ。
 やがて猫がしゃべらなくなった。わたしは何度も話しかけた。ねえ、前みたいにしゃべりなさいよ。にゃあにゃあ言ってないで言いたいことをちゃんと言いなさい。そう話しかけても、猫は、純粋ににゃーにゃー鳴き続けるだけ。獣医に診せようかと考えたが、かえってわたしの頭がおかしいと思われて、精神科をすすめられるのがオチだ。気になるが、放っておくことにした。どうせわたしをからかっているのだろう、この狡猾な猫は。

 はたちのことについて少し。
 彼とはあの日を境に、疎遠になった。
 一度、謝ろうと思って電話をかけたことがあるけれど、電話番号が変わっていてつながらなかった。本当に悪いことをしたな、と、深く反省した。
 あの日、はたちを追いかけていたら、わたしは今ごろ、はたちとしあわせに暮らしているのかもしれない。毎日ふざけ合って大笑いしているのかもしれない。そんなことをふいに思うが、絶対にありえないことだった。

 ある日、ブンガクが忽然と現れた。
 スーツ姿で。
 髭もきれいに剃っていて。
 といっても、それはわたしの眼前ではなく、紙面に、だ。
 新聞の片隅に有名な文学賞の記事があり、そこに表彰状とトロフィーを持ってにこやかに笑っているブンガクがいたのだ。名前はペンネームではなく、「田中一縷」という本名を使っていた。色つき眼鏡をかけた評論家が、この作家は端倪すべからざる才能を持っている、と絶賛していた。
 それを見たわたしは、まず胸に手を当ててゆっくりと深呼吸をし、動悸が収まるのを待った。悪態をついてやってもよかったのだが、目の前にいない人物に怒りをぶつけるほどの若さは、三十路を越えたわたしにはもう残されていなかった。
 その日の夜、わたしは原因不明の高熱にうなされ、三日三晩うんうん苦しんだ。看病に来てくれた母によれば、わたしは無意識のうちに「あのやろー」だの「殺すー」だの殺人願望者並のうわ言を繰り返していたらしい。
 翌週には普段どおりの体調に戻った。
 そして、今後のブンガクとの距離の取り方について、考えてみた。
 直接出版社に問い合わせたり、ファンレターを送ってみたり、探偵を雇って居所を突き止めてもらったり――といった発想は次々に湧いてきたが、しかしわたしの矜持がそうはさせなかった。とりあえずブンガクが発表する小説を徹底的に読み通すことにした。最初の五、六作品はうまく心を通わせることができた、と思う。だが、どういうわけか、七作目以降ブンガクの文体は変わった。
 当初、ブンガクは軽妙洒脱なタッチでとりとめのない群像劇を描いていたが、次第に起承転結のある安っぽいドラマのようなものになり、それが何作か続いたあと、急に暴力とかセックスとかドラッグとかをないまぜにしたような憎悪むき出しの文体になったのだ。
 そして、だ。
「人間合格の、また合格」というわけのわからない本を発表後、失踪した。
 わたしはブンガクの言葉のすべてを愛した。世間から辛辣な評価を受けようとも、どんなに文壇から見捨てられようとも、わたしだけはブンガクの言葉を信じた。わたししか理解できる人間はいないだろうと確信していた。
 人に興味のない人間が愛を語っているようだと、ある評論家が書評していたが――はんっ! バカじゃねえの! 当ったり前じゃん、ブンガクは自分以外に興味持ってねえんだよ、最初からっ。わたしはとっくに気づいていたよ、そんなこと。今さら得意そうに言ってんじゃねえよ。ばーか、ばかばかっ! と、わたしはその評論家に向けて罵った。
 ――ブンガクのことになると、すぐにムキになるんだから。
 横から、猫に言われた。
「だって、この色つき眼鏡のじじい、なーんもわかってないんだから。ただブンガクをけなしてるだけで、評論も何もあったもんじゃないわ」
 ――ねえ、吟子。
「何よ。ちょっと黙ってて……」
 そこでようやくわたしははっとなった。見ると、猫がくすくす笑っていた。
「……うそ」
 わたしはのろのろと椅子を引き、リビングの床に正座する。
「もしかしてあんた、しゃべった?」
 ――おもしろいなあ、きみは。
 猫はなおもくすくす笑う。その都度、首の鈴が涼しげに鳴る。
 ――ぼくがしゃべれることくらい知っているだろう?
「だって、あんた、ここ何年もずっとしゃべったことなかったじゃん。てっきり普通の猫になっちゃったんだって思ってた」
 ――そうだね、確かに一時は普通の猫になった。でも。
「でも?」
 ――伝えたいことができたから、また神様にお願いして言葉をもらったのさ。
 えっ。と、わたしはすっとんきょうな声を出す。
「神様なんているの?」
 猫は、今度はからからと笑う。なんだかとても懐かしい。
 ――いるよ。いる人には、いる。でもいない人には、いない。
「へー」
 素直に感心する。
「で、なんなのよ、その、伝えたいことって?」
 ――そうだねえ。ぼくはいつもそれとなく示唆して相手の反応を見るのが好きなんだけれど、これはとても重要なことだからストレートに言うよ。
「はいはい」
 どうせたいしたことじゃないだろうと、わたしはふっと吐息をつく。
 ――死期が近づいているようなんだ。
「は?」
 まぬけな声が出た。なぜか体の力がすとんと抜けた。
 ――うん、まあ、そういうことだから。
 猫は片目だけのまなざしで、遠くを見据えるような仕草をする。ベランダから金色の夕日が差し込んでいて彼の毛並みがきらきらと光って見える。細くやわらかな毛。体を二つに折り曲げて、後ろ脚をしなやかにのばして、せっせと毛づくろいする姿を、これまで何度も見かけただろう。
「どういうことよ! ねえ、死んじゃうの!」
 慌てふためいた。どうしようどうしようどうしよう――そればかりが頭の中で字幕みたいに流れる。猫が死んじゃう、猫が、死んじゃう……死んじゃうっ!
 ――まあまあ、落ち着いて。
 猫は諭すように言う。
 わたしは辺りを隈なく見回す。どこかによい答えが隠されていないものか、と。
 どうしようどうしよう、死んじゃう死んじゃう……。
 ――桜井吟子!
 猫が歯をむきだしにして怒鳴るように言った。数秒間の沈黙のあと、
 ――桜井吟子。
 と、猫はもう一度言った。打って変わって、優しい声。
 はい。わたしは姿勢を正して、答える。
 ――死はそんなに悪いものじゃないよ。ぼくがつらいのは、きみが悲しむことだ。わかるね?
「……はい」
 ――で、ドラマチックにありがとうと伝えて死ぬのが、ぼくの理想だったんだけれど、ね。どうやら猫という生き物は、死に様を見られることが苦手らしい。だからぼくはこの家を出ていこうと思う。わかってくれるね?
 わたしは下唇をぐっと噛んでうなずいた。
 ――お願いだから泣かないでくれよ。猫だって、人間の涙には弱いんだ。
 ふたたびうなずく。服の裾を握りしめて、こらえる。口を開くと何もかもがゆるんでしまいそうだから、何も言うことができない。
 ――それともう一つ、重要な報告があるんだ。
 猫はもったいぶるように空咳をしてから、
 ――きみは、ブンガクと会うことになる。
 と言った。言い終えると、すぐにくるっと身をひるがえした。
 ――じゃあ、お元気で。
 すたすたと玄関へ歩いていく。これから散歩に出掛けるような気軽さがそこにはあった。

 それから二ヵ月後のことだ。
 その日、気象庁の宣言どおり今年三度目になる真夏日を記録した。鉄さびのにおい、蒸れた草のにおいが鼻先をかすめる。これでまだ梅雨の前だというのだから末恐ろしい。なんだか世界中が大掛かりな詐欺に引っかかっているようだ。
 夕方。スーパーで買い物をして帰ると、ひさしぶりに千明から手紙が来ていた。
 わたしは急いで部屋へ行き、ハサミで封筒をていねいに切りとった。
 そのときケータイがピロピロと鳴り出した。ディスプレイには「公衆電話」と表示されている。誰だろう?
 もしもし。わたしは不審に思いながら、応対した。
 向こう側の相手は反応を寄こさない。
 しかし、猫の助言を聞いていたわたしは、
「……ブンガク?」
 思わず呼んだ。
「ブンガクでしょ?」
 しん、とした静寂が流れたあと、
「……ぼくはね、今ね」
 ブンガクの声。しかし、なぜか赤ちゃん口調だ。
「今ね、とっても――さみしいんでちゅ」
 と。
 はあ? わたしは呆れ気味に聞き返す。
 空いた口がふさがらない。
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