FC2ブログ

記事一覧

響けよ、愛しのブンガク(十八)


       十八

 結婚なんて、大方愛をなくしたカップルのためにあるんだって思ったり、いまどきそんな大層なものじゃなくて文化祭みたいなものだって軽蔑視したりしてたんだけど……えへへ、このたびあたしは、あたしたちは、結婚することになりました。ピース。
 千明からの手紙は毎回、唐突だ。心臓に悪い。
 前回は、千明が旅先で――たしかチェルシーというサッカークラブの試合を観戦しているときに――日本人男性と知り合った、そういう内容だった。二人ともサッカーが好きで、その日の夜は一睡もせず、語り合った。そして翌日の昼にはセックスをして、ごはんを食べて、またセックスをした。あたしたちは奇しくも一生分の出会いをしてしまったの、と、千明は手紙に興奮ぎみに書いていた。それからどうなったのかと気になっていたが、まさか結婚に至るとは!
 彼ってね、とってもチャーミングなの――と、そこから千明ののろけは始まる。
 たとえば、料理屋に行くとね、彼は、あたしから見て斜めの席に座るの。どうしてかっていうと、まっすぐに見つめられると恥ずかしいんだって。ね、かわいらしいでしょ? それに彼は、とても綺麗好きなのよ。窓の桟を指で拭ったって埃なんかありゃしないわ。靴磨きは得意中の得意で、あたしの靴までピカピカにしてくれるのよ。なんでも靴の汚れ落としには消しゴムを使うといいらしくて、彼ったら常に専用の消しゴムを常備しているのよ。
 それより何より、アサが彼を気に入ってることが嬉しいの(アサとは、今年で五歳になる千明の愛娘である)。
 あたしとアサは、彼と出会う前は、日々めまぐるしく変化する街の景色をぼうっと見ているだけだった。街が活動するさまを、ただただ見つめるだけ。世界の営みに、日常そのものに参加していない気がしていたの。でもね、彼と出会って、あたしたちはこの街にいていいんだって言ってもらえたような、認めてもらえたような気がしたの。ね、素敵でしょう?
 千明の言葉は便箋の上で幸福に躍っていた。そして最後にこう綴られていた。
 ねえ、吟子。あなたもしあわせになりなさいね。世界で一番しあわせなあたしの次に、しあわせになりなさいね。絶対によ。
 そのためにはブンガクのことを忘れなさい。これは忠告ではないわ、命令よ。あなたはあんなやつのことなんか、さっさと忘れてしまうべきなの。パン屋で働いていたときはずいぶんとあなたたちの話に楽しませてもらったけど……。
 そういえば、パン屋をやめてから、五年も経つのね。吟子と知り合ったあのころは本当に楽しかったなあ。まっ、暴力男に悩まされてもいたけれどね。
 じゃあ、吟子も新しい恋を探しなさいよ。って言われなくても、しっかりやってると思うけど。
 そういうことだから、元気でね。気が向いたらまた手紙を書くわ。
 ばいばい。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント