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響けよ、愛しのブンガク(十七)


       十七

「ぼくの内側の、深い淋しい闇の部分の一角に、灯台が建っている」
 一昨日のことなどなんとも思っていないのだろうか。ブンガクの口調は軽やかだ。
「その灯台は、ぼくの無意識を一瞬一瞬、間欠的に照らしてくれる。そしてその一瞬一瞬は、日本刀を抜刀するがごとく、鋭い。ぼくはそれを見逃すわけにはいかないのだ」
 言っていることがちっとも理解できない。
 川。
 わたしたちは石段に腰かけて、目の前に流れる川を見ている。
 お互いがここにいるようで実は遠い。そよそよと風が吹いている。
 夜。
 そう、今は夜。建物の窓明かりやネオンサイン、電信柱の灯に川の表情が縮緬皺を浮かべている。空のずっと奥の方で航空障害灯が赤い明滅を繰り返している。世間ではクリスマスだというのに、そんな雰囲気はどこにもない。
 ここ二日間、どう生きたのか、よくわからない。仕事にはちゃんと行ったし、ひさしぶりに千明から電話がかかってきたことも、覚えている。絶望しちゃだめよ、なんて、彼女から意味不明の励ましを受けたことも、うん、覚えている。朝七時に起きて目玉焼きがうまくできたのとか、試しに買った化粧品がすごく肌に合っていたのとか、冷蔵庫にアルコール類しか入っていなくてびっくりしたのとか――。だけど、なんだか生きた心地がしない。かといって死んでいたわけでもないのだが。ああ、適切な言葉が見つからない。わたしは足もとを見て、ネジを捜した。きっとどこかにネジが落ちているはずだ。
「わたしは」
 ふと疑問を口にしてみる。
「わたしはどうしてここにいるのだろう」
 ブンガクは無反応のまま、そよ風に髭をもてあそばれている。
「わたしは」
 もう一度投げかける。
「わたしはどうして、かつての先生と会っているのだろう」
 言い終わるなり、鼻先に雨粒が落ちた。ぽつり、ぽつり、と、続く。雨だ。
「橋の下へ避難しよう」
 ブンガクはそう言い、のろのろとテントへ向かって歩き出す。わたしはついていきながらちらりと土手の方を振り返った。
「……また会えるとは思っていなかったよ。出席番号二十七、桜井吟子」
 橋の下の暗がりに入るなり、ブンガクは余分な感情を削いだ声で、言った。
 さっきからぼうっとしているわたしはますます意識をにじませながら、
「やっぱり、わかってたんだ」
 と言った。少しの間を置いて、いつから? と聞く。
「わからない。知らないうちに、気づいていた」
「じゃあ、気づいたとき、どう思った」
「……ひさしぶりだなと思った」
「それだけ?」
「なにか不満でも?」
「それはそうよ」
「ひさしぶりに会ってひさしぶりだなあと思うのは、当り前なことだろう?」
 それにだな、と、ブンガクは慎重に言葉を継ぐ。
「当り前なことには決まって、裏がある」
 裏?
「ああ、裏があるんだ。たとえば、愛していると言えない男がいる、としよう。しかし、その男の表面をそのまま鵜呑みにしてはいけない」
「じゃあ、どう思えっていうのよ。愛してるって言わないんだったら、そう受けとめられても仕方がないじゃない」
「愛していると言えないほど、愛しているっていう解釈が、きみにはできないのか?」
 ブンガクはやれやれと言った感じで首を横に振る。
「きみは魯鈍だな」
 ふだんのわたしならここでなんらかの激情に走る――矢継ぎ早にブンガクを罵ったり、近くのものに八つ当たりしたりする――のだが、今はそんな気分じゃない。
 雨は音もなく、空気に馴染むように降っている。橋の上を通過する車の震動がここまで伝わってくる。わたしはふたたび土手の方を見やる。何やってんだろ、あいつ。
「それで結論を言うとだな」
 ブンガクは言った。
「裏こそ真実であり、表の価値は無に等しい、ということだ」
「つまり……ブンガクの『ひさしぶりだなあ』と思ったのには、なんらかの意味が含まれているってこと?」
「いや、どうかな。本当に、ひさしぶりだなと思っただけかもな」
 わたしは、ふはは、と笑った。
 ブンガクも声を出して、ふははと笑った。
「そういえば、自分のことを『小生』って呼ばなくなったね」
 ふはは。
「ぼくは、ぼくだ。そんな気取った呼び方など、ぼくは一度たりとも言ったことがないぞ。きみの勘違いであろう」
 ふはは。
「そうだったかしら……そうね、きっとそうね。わたしの勘違いね」
 ふはは、ふはは。
「おい、おめえら!」
 後ろを振り向くと案の定、こっちにやって来るはたちがいた。バイク乗りが着るようなつなぎの格好で、首や腕にじゃらじゃらとアクセサリーをつけている。わたしの注文どおりだ。
「そんなところでさあ、何いちゃついてんだよ。おれも仲間に入れてくれよ」
 打ち合わせのときに何度も練習したセリフである。
「あれえ? もしかしておめえら、援助交際? おっさん、見かけによらずやるじゃん!」
 はたちは陽気にブンガクの腕をたたき、そしてにやにやしながらわたしの腰に手を回す。はたちの手が、かすかに震えている。どうやら緊張しているらしい。でも、それはわたしも同じだった。
「なあ、おっさん。お楽しみの最中に悪いんだけどさ、この子、いただいちゃってもいい?」
 その言葉に、ブンガクはなおも憮然としている。
「なんとか言えって!」
 はたちは、吠える。顔がほのかに赤みを帯びている。
「おれ、この女、いただくぜ。マジで」
「好きにすればいい」
 ブンガクはあっさりと告げる。薄い笑みを張りつかせたまま。とたんに橋の上を通過する車の音が絶え、わたしの胸の鼓動も、しん、と、無音の光になった。
「マジで」
 光が砕ける。
 いいんだな。はたちが念を押す。
 ああ、いい。ブンガクは平気で答える。
 はたちと目が合う。わたしは、早く犯して、という意思を込めて見つめる。早くブンガクの目の前でわたしを犯して――。
 乱暴に組み伏せられる。その拍子に、コンクリートの地面に軽くお尻を打つ。はたちが上にまたがってきて、わたしのコートのボタンを、危なっかしい手つきで外していく。いつかのような荒々しい息遣い。体から放たれる黒い熱気。怒りの塊。
 ジーンズとパンツをずるずると膝まで下ろされる。
 はたちは、強い力でわたしを四つんばいにし、むきだしの陰部に自分のそれを押し込んできた。わたしはまだ濡れていなくて、付け根まで入れるのに少しまごついた。くそっ、というつぶやきが聞こえた。
 はたちが荒々しく突いてくる。
 ブンガクはそんなわたしたちをじっと見つめている。まなざしを一瞬たりともそらさない。
 こんなにも真面目に見つめられたことなど、かつてあっただろうか。ブンガクがこんなにもわたしに関心を抱くなんて初めてのことだ。そしてそれはもう二度と訪れないことのように思えた。
 あ。
 どうして声が漏れるのだろうか。
 あっ。
 まただ。はたちの腰が当たるたびに、あっ、と、声が漏れるのである。
 あっ、あっ……。
 やがて声は律動的に口からこぼれ始める。
 自分が感じているとは思いたくない。でも、体が正直に反応してしまう。ブンガクからそそがれる視線がますます色濃く、粘着っぽいものになってくる。それを意識すればするほどわたしは快感の波にもまれながら感情を乱されていった。醜態だった。
 しかし――。
 はたちは、惰性のようにのろのろと突いていたが、
「やっぱ、やめよう」
 と言ってペニスを抜いた。
「こんなことをしてもなんにもならない。おれも、ぎんも、このブンガクってやつも、頭がおかしいだけだよ」
 はたちのそれはだらしなく下に垂れていた。わたしは立ち上がり、ため息をつきながらジーンズを引き上げる。
 はたちは服装を正すと、きびすを返して、無言で走り去った。
 その後ろ姿を見送ったあと、わたしはぽつりと言った。
 ……どうして助けてくれなかったの?
 振り返って、ブンガクを見る。ブンガクはだんまりを決め込んでいる。
「犯されるわたしを、どんなふうに見ていた? わたし、無様だった? それとも勃起した? おもしろかった?――なんとか言いなさいよ!」
 わたしはブンガクの頬を思いきり引っぱたいた。
 そしてうずくまるブンガクを感情まかせに蹴って、蹴って、蹴った。わたしは涙や汗や鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながらも攻撃の手をゆるめなかった。
 雨は今やざあざあ降りになっていた。
 ブーツの爪先が青いビニールシートの縁に引っかかり、わたしは派手につんのめった。両手をついて、そのまま崩れるように泣きわめいた。自分でも子どもみたいだと思うくらい稚拙な泣き方だった。理性がなくなると――そこにはまったく成長していない自分がいたのだ。その事実に、ひどく困惑した。困惑しつつも、わたしはわあわあ泣きわめいた。
 当たり前のことには決まって裏がある!
 ブンガクが、出し抜けに叫んだ。
 ぼくはそう言っただろ? 聞いていなかったのか! ぼくは、ぼくで、本当は苦しかったんだ――。
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