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響けよ、愛しのブンガク(十六)


       十六

「ぎんーっ」
 はたちはそう言いながら大手を広げて、わたしの到着を歓迎する。
「ぎんーっ。会いたかったぞお」
 待ち合わせ場所である駅前広場。そこの噴水の縁に乗って声を張り上げている。
「ぎんーっ。おれ、ぎんとのデートが楽しみで昨日から一睡もしていないんだぞ。すげえだろ!」
 バカ丸出し。わたしはほとほと呆れながら、そして少しうつむき気味に、はたちのところへ行った。
「ぎんーぎんーって、おばあちゃんみたいな呼び方しないでよ」
「だって、あだ名の方が親近感があるじゃん」
「親しみはね、時間が解決してくれるものよ。名前とか接し方とかじゃないわ」
「さすがぎんは頭がいいね。おれにはさっぱりわかんね」
「救いようがないわね」
「うん、おれ、ばかだから」
「自分で言うな」
 女のわたしにチョップを入れられても、はたちは「いてててて」と言ってちっとも応えない。それどころか、ますますニヘニヘと笑う。彼にはどうも笑い方が二パターンあって、気分次第で「ヘラヘラ」と「ニヘニヘ」を使い分けているようだ。逆に言うとその笑い方しか持ち合わせがなく、笑ったときは決まって締まりがない。
「さあて、出発進行―」
 はたちはわたしの手をごく自然に握り、商店街方面に向かって歩き出した。

 あの日。
 ブンガクと別れてからしたたかに酔って街中をふらついているときに、はたちと出会ったのだ。
 なにが悲しいのー。
 そんな軽いノリで泣いている女に声をかけてくるバカがいるとは思ってもみなかった。
 悲しくないわよ。でも……悲しいわよ。悲しいに決まってるじゃない!
 ねえ、おれでもよかったら聞いてやろうか。
 はたちは軽々しく言った。嘗めた面だった。
 遠慮しときます。
 わたしは歩調を早めた。はたちはジャケットのポケットに手を突っこんだまま飄々とスキップするようについてきた。
 すべて吐き出してしまいな。楽になるぜ。
 ……わたしは犯人か。
 ははっ、カツ丼食うか?
 だから犯人じゃないっつーの。
 しばらくの間、途方もないやりとりが続き、最初に吹き出したのははたちだった。わたしもつられて吹き出してしまった。パチンコ屋と居酒屋の中間でくつくつ笑い合った。
 それにしてもおまえ、ひでー顔だな。メイクが剝がれてるぞ。目許、パンダみたいに真っ黒。
 うるさいわねえ。
 なあ、彼氏にふられたんだろ? だから半死してんだろ。
 半死?
 そうだよ、女は失恋するたびに半死状態になるんだよ。
 はたちは鼻をこすりながら得々と言う。
 そしてまた復活して恋に挑むのさ。だから女の子はいつまでもきれいなんだよ。
 演歌みたい。
 へへっ、ありがとう。
 別に褒めてないし。
 へへへっ。
 笑うな!
 そのへんの会話は覚えている。でも、それからどうしてはたちの車に乗り込んでしまったのか。意外に自分は尻軽な女なのかもしれない。
 後部座席に押し倒されてにわかに正気を取り戻したわたしは、
 ちょっと、何やってんの!
 と叫んだ。足をばたつかせて抵抗した。
 でも。
 はたちが言うには、
 セックスしようって言ったの、そっちじゃん
 ――らしい。やはりわたしは尻軽なのだ。なんだか自分に失望した。
 やさしくするからさ。
 はたちはお門違いな発言をしたが、もう怒る気になどなれなかった。
 そして、「しよう」と言っておいてしないのは、男の子にとって理不尽きわまりない行為だと納得したわたしは、自分からジーンズを脱ぎ始めたのであった。
 紫紺の夜空、酢豚臭い夜気、ハリネズミの金髪……。
「バーン、バーン。ズババババッ」
 はたちは両手にマシンガンを持ち、ゲーム画面に向かってぶっ放している。
「ズバババババーン。ドカーン!」
 ガソリンスタンドの給油機が爆発し、そこいらを逃げまどう警察官が何人か爆風に巻き込まれた。はたちはさらに追い討ちをかけるべく生き残った人間を撃ちまくる。画面右端の得点がどんどんはね上がっていく。撃つ、撃つ、撃つ。人間が倒れれば倒れるほどはたちの雄叫びはボルテージを上げていった。プレーヤーが逃走犯となって警察と攻防を繰り広げるゲームが存在するなんて――なんというか、不純だ。
「ぎんーっ。おまえもやってみろって。ストレス発散に最適だぞ」
「いいよ、わたしは」
「おまえって意外と――なんだな」
「えっ、なんだって?」
「だから――者なんだなって言ってんの」
「はあ?」
「いいよ、もう」
 マシンガンの射撃音で聞きとりづらい。それにもまして店内そのものが騒音に満ちている。スロットマシンの音、レースゲームの車の走行音、コインがジャラジャラ吐き出される音。
「ねえ、出ようよー」
 わたしは怒鳴るように言った。
「えっ、もう?」
 はたちは面食らった顔をした。
「もしかしてゲームは嫌い?」
「まあ、それもあるけど、もっと静かなところがいい」
「うん、じゃあ、わかった」
 そう言って、はたちはにっこり笑った。
「すぐに片をつけるから」

       *

 はたちという名は、セックスのあとの与太話で知った。
 名前、なんて言うの?
 わたしが問うと、
 うーん、忘れちった。
 はたちはヘラヘラ笑いながらしらばっくれた。
 わたしのことをさんざん呼び捨てにしておいて。言いなよ。
 呼び捨てが嫌なら、これからはおまえを「ぎん」って呼ぶよ。
 そういう問題じゃないでしょ。早く言いなって。
 じゃあ……おれのことは、はたちって呼んでよ。
 はたち? へんな名前。
 まあ、いま考えついたんだけどさ。
 何よそれ。ていうかなんでまた唐突に「はたち」なの?
 だっておれ、今年が成人式だったんだもん。だから、はたち。
 ばかじゃないの。しかもそのあだ名、有効期限が次の誕生日までじゃん。
 そうだなあ……ぎんの言うとおり次に誕生日が来たら「にじゅういち」になるなあ。
 直木三十五みたい。
 何それ。地名?
 別に。なんでもない。
 しつこく名前を問いただしても結局はたちが口を割ることはなかった。はたちが言うには「サイコーにまぬけで古風な名前」だから「言いたくない」し「言われたくない」のだそうだ。

       *

「おれ、こういうところって苦手なんだよね。観てるだけってつまんねーし」
 口をとがらして、はたちは言った。
「あーあ、もうちょっとで全面クリアーだったのになあ。ぎんが急かすからいけないんだ」
「あんた、女の子がいつまでもゲーセンにいたいと思う?」
 わたしは言った。
「前に付き合ってた子は、おれのゲームする姿が最高に格好いいって言ってくれたぞ」
「じゃあそういう子とデートしなさいよ。わたし帰るから」
「あーっ、わかったよ。わかったから行こう」
 入り口の小窓で入場券を購入し――ブンガクとは違い、はたちが進んでお金を払ってくれた――、わたしたちは館内のパンフレットを片手に、まず「深海トンネル」の中に入った。そこは半円形の通路になっていてガラス越しにたくさんの魚が自由気ままに遊泳していた。わたしはたちまち魚たちの美しさに目を奪われた。水槽の水はどこまでも澄み渡り、光をあらゆる角度から反射していた。
 乗り気でなかったくせに、はたちは「おー」やら「へー」やら声を上げながら各プレートに書かれた説明を読んでいる。日本には生息していない魚、玉虫色の鱗をちらつかせる魚、電気をたくわえた魚。
 海って素敵だな、と思う。しかし、怖いな、とも、悲しいな、とも。
「魚になりてえ!」
 はたちが叫ぶように言った。近くの子どもがぎょっとし、すぐさま母親に抱きかかえられた。
 酸素の気泡音と癒しのBGMがうっすらと流れている。
 なあ、ぎん。おれ、魚になれるかな? ライト兄弟が空を飛んだんだから、おれにだってできるよな? なあ、魚になったらどうする? でも、おれ、ばかだからすぐに釣られてしまいそうだなあ。
 軽く頭痛がする。めまいも少々。わたしはさっさと他のステージへ進む。ばかはいちいち相手にしないほうがいい。シカトがいちばん。
「ねえ、ぎんーっ。待ってよー」
 ばかが追いかけてくる。あちこちから好奇のまなざしを向けられる。
「ぎんが魚だったら何するー?」
「知らないわよ。だって魚じゃないもん!」
「もしもの話だよ」
「『もしも』なんて……わたし考えたくないの」
「想像力がないなあ」
「あんただけには言われたくない」
「あっ、怒った?」
「別に」
「怒ってるでしょ?」
 はたちは嬉しそうに揶揄する。
「やーい、怒った怒った。ぎんが怒ったあー」
「うるさいわねえ」
 もしも――。
 わたしは大股でつかつか歩きながら考える。
 もしも、わたしが魚だったら。
 だったら――どうするのだろう?
 あの橋の下の川へ行って、ブンガクの生活を見張るのだろうか。錆びたやかんの鍋で一心にラーメンをすすっているところを見ているのか。ブンガクが川に放尿したら、わたしはそれを愛おしく思いながら浴びるのか。そしてブンガクが腹をすかせば、わたしはためらわず自分の体を捧げるのか。
「ねえったらぁ、何か言えよー」
 その言葉に、
「うるさいって言ってるでしょ!」
 わたしはとうとう牙を剥いた。
 どっ、どうしたんだよ、急に。はたちは大げさに体をのけ反らせて言う。
「うるさいっ! うるさいうるさいうるさーいっ!」
 なんだかとてつもなく惨めな気持ちになってきた。
「ぎんー、ごめんな」
 はたちはおろおろしながらも、わたしを浅く抱擁する。人目もはばからず。腕に純粋な優しさを込めて。こいつはそういうとっさのケアがものすごく、うまい。女の子に慣れてるんだか慣れていないんだか……たぶん、天性のものなのだろう。
「でも、こんなところで大声を出したらだめだぞ。今、みんなが見てるぞ」
「あんただってさっき叫びまくってたくせに」
「ああ、じゃあ、これでおあいこだな」
 よくわからないことを平気で言う。
 ふえーん。
 と、わたしは泣き真似をして、はたちの鎖骨におでこをくっつけた。防寒ジャケットの上でも骨のごつごつした感触が伝わる。やっぱり男の子なんだなって、思う。
「よしよし、いい子だ」
 はたちはムツゴロウさんみたいに献身的にわたしを扱う。
 えーん、えーん。
 わたしはさらに泣き真似を続ける。泣きたいのを我慢して真似るのは意外につらい。本当は今すぐに木っ端みじんになってしまいたい。
 えーん、えーん。
 はたちは、優しい。相性もまんざら悪くないと思う。結婚してみたら案外お墓に入るまで行ってしまうかもしれない。
 でも。やっぱりはたちじゃ、だめだ。どこか足りない。
 わたしには――。
「ねえ、はたち」
 わたしは首をもたげる。泣き真似は、やめ。
「今度は何?」
「お願いがあるの」
「へ?」
 はたちは、虚をつかれたリスみたいな顔だった。

       *

 はたちと出会った日――。はたちは家まで送るよと言ってくれたが、わたしは終電があるからいいと断った。初対面の男に住所を知られるのは嫌だったのだ。それに、はたちとはもう二度と会わないだろうと、なんとなく思っていた。
 だから、ケータイの番号を聞かれたとき、わたしはすんなりと答えられた。もう会わないという前提のもとで。電話がかかってきてもしばらく無視しておけば自然に絶えるだろうと思っていた。
 ちょうどクリスマスのシーズンがやってきて、翌週からは仕事がかなり忙しくなった。ケーキの予約注文が殺到し、お歳暮の進物と焼き芋が売れに売れた。おかげで余分なことを考える暇がなくなった。
 すべては望むままに時間がすぎていった。
 ただ一つだけ予想外だったのは、はたちからの着信がなかなか途絶えないことだった。最初の二、三回無視しておけばいいだろうと甘く見ていたが、一週間たっても朝昼晩一回ずつ律儀に「ハリネズミ」からの着信があった。
 着信履歴が「ハリネズミ」で埋まったとき、わたしは折れた。
 ああ、つながった。よかったあ。
 それがはたちの第一声である。
 なんの用? くだらないことだったら切るからね。
 なんだよ、せっかく心配してやってたのに。
 心配?
 なに言ってるのだ、こいつは、と、わたしは眉をひそめていぶかしんだ。
 だって、死んだかと思ったんだもーん。
 はたちは愉快そうに言った。
 そんなに電話に出てくれないとさあ……誰かに殺されて、今ごろ死体になってそのまわりをハエが飛んでいるかと思うじゃん、普通はさ。
 普通は思いません。
 でも、それに近いことは思うって。ケータイがつながらないなんていう事態、おれ、初めてだったし。
 さすが現代人。典型的なケータイ依存症ね。
 でもまあ、よかったよ。ちゃんとつながったし。
 さすが現代人。プラス思考はある意味、最高の処世術だわ。
 難しい言葉つかわないでよ、さっきから。頭、混乱しちゃうじゃん。おれ、これ以上ばかになりたくないし。
 安心しなさい。混乱のあとには、たいてい秩序が待っているものよ。
 ところでさ、今度デートしない?
 はたちはそう言って話の接ぎ穂を無理やりねじ曲げる。
 いやです。わたしは一刀両断する。
 どうして? あの日の夜、あんなに打ち解け合ったじゃーん。
 あんなに、って……わたしは全然はたちのこと、知らないよ。打ち解けてないし。
 えー。おれ、ぎんのこと、よく知ってるよ。
 たとえば?
 ……うーん。たとえば。
 無理に言わなくていいよ。
 待って待って。五秒だけ待って!
 そしてきっちり五秒間押し黙ったあと、
 カーテンの中の人みたいなんだよ、ぎんは。
 と、はたちは滅法まじめに言った。
 カーテンの中の人?
 わたしは思わず聞き返した。
 うん、ぎんはカーテンにくるまって自分を隠してるんだ。でも本当はそのカーテンから出たいっていつも思ってる。カーテンの中で丸まっていても、生地のすごく薄いカーテンだから、外部から簡単につつかれちゃう。で、今はもう、そのカーテン、だいぶ年季がきていてそろそろ買いに行かなくちゃいけないんだ。でも、出られない。買い替えなきゃいけないのにいつまでもそこから動けない。でもね……もう本当にそのカーテンはぼろぼろなんだ。いろんなところに穴が空いていて――覗いたら、ぎんの丸まった姿が見えるんだ。だからこのままじゃ、ぎんが苦しんでいることが誰にもわかっちゃうんだよ、本当に。
 たどたどしかったけれど、わたしには彼の言っていることがわかった。それはたったの五秒で考えたわりには、とても、とてもとてもいい解答だった。
 わたしとデートしたい?
 わたしは意地悪な口調で聞いた。
 うん、したいしたいっ!
 じゃあ、デートしてあげてもいいかな。
 やったーっ。おれ、もう死んでもいいかも!
 平気で的外れなセリフを吐く。でも、こいつの場合、そこに真実味があるから不思議だ。
 一つだけ条件があるわ。
 なになにー?
 まだわたしは、あんたのことを何も知らないの。だから。
 だからぁ?
 あんたの話を聞かせてよ。知らない人とデートするなんて、セックスより格好悪いじゃない。
 うん、いいよ。おれのこと、全部聞かせてあげる。
 その日の電話では、はたちの小学生から高校生までの話を聞いた。従順というかバカ正直というか、何から何まで話してくれたのだ。
 中学生くらいからいじめられるようになったこと、精神科に通って抗鬱剤を飲んでいたこと、高校で定時制に行き始めてもいじめは続き、嫌になって中途退学を決断したこと――はたちはなぜかおもしろそうに、しかも懐かしそうに語った。もういいよ。それ以上言わなくて。わたしはそう言ったけれど、はたちは「聞いてほしいんだ」と言ってやめなかった。そして陰惨な話を聞いているうちに、それが陰惨だと感じなくなる自分がいた。はたちの声に自虐が一切含まれていないのを知ったからだ。本当に彼はおもしろおかしそうに言うものだから、わたしはつい吹き出してしまった。あんた、もしかしてマゾ? そうからかうと、はたちは大げさな声量でげらげら笑った。ちがうよー。ああ、でも、ぎんはSだからバランスいいかもね、おれたち。
 次に電話がかかってきたのは、二日後の夜だった。あんた、暇人? わたしが開口一番に言うと、だってえ、と、はたちは拗ねるように言った。だってえこの時期、虫が越冬してるから仕事がないんだもん、と。
 はたちは今、害虫駆除の会社で働いているらしい。この企業はまず潰れる心配がないんだとはたちは言う。とくに外食産業の大敵であるゴキブリの駆除は安定な収入をもたらしてくれる、飲食店には法律で害虫駆除が義務づけられているから業者を頼まないわけにはいかないからね、と。
 ゴキブリはどのくらいの期間で孵化すると思う?
 得意げに質問され、わたしは、そんなの知らないわよと突っぱねる。
 たったの二週間。短サイクルで孵化するからそのたびに駆除が必要になるんだ。駆除料金は初回が一万五千から二万円。それ以降は四千五百円から八千円くらい。ゴキブリは永久的に発生してくるからリピート注文が多いし、需要が高い。だからうちらの会社はそこそこやっていけてるってわけ。
 ふんっ。と、わたしは鼻を鳴らした。
 でもねえ。
 はたちは一定のトーンで会話を継ぐ。
 害虫から見れば、おれたちのほうが害虫なんだよねえ。
 そんなことないよ。わたしは反射的にかぶりを振った。
 なんで? おれ、おかしなこと言ってる?
 別に……。
 わたしの中にもっと強い言葉があればいいのに。どうして肝心なときに何も言えないのだろう。言ってあげたいのに、言えない。一つも浮かばない。わたしは自分の無能さを呪った。はたち、ごめんね。
 だっておれ、害虫の気持ちがよくわかるんだ。学生のときに、害虫だったから。
 はたちは相変わらずヘラヘラした感じで言うけど、さすがに笑い飛ばせる雰囲気ではなかった。
 やめなよ……そういうこと言うの。
 うん、わかった。やめる。

       *

 イルカが、ものすごい跳躍力で空中のフラフープをくぐり抜ける。一頭、二頭、三頭――三頭とも成功だ。半円形の客席からぱらぱらと拍手が起こる。イルカたちは調教師のもとへ行き、口先を愛くるしく動かしてご褒美を催促する。人間と同じような眼球で、あちこちに切なそうにまなざしを送っている。かわいい、とか、癒されるー、とか、客からは絶賛の嵐。これは一種のアニマルセラピーというものであろうか。
「その……ブンガクってやつのこと」
 はたちは、ふたたび泳ぎ出すイルカを見つめたまま言う。
「好きなの?」
 わたしも、尾ひれを上下に動かして、すいー、と進むイルカを見つめたまま、
「わからない」
 と、答える。イルカはどうしてこうも、すいー、となめらかに泳げるのだろう。
「わからないって、そんなの変だよ」
 はたちはようやく相好を崩した。先ほどまで仏頂面だったのに、なぜかやけにニコニコ笑う。
「ぎんはさー、きっと錯覚を起こしてるんだ」
「錯覚ねえ」
 わたしは冷静に相槌を打つ。イルカが飛ぶと観客は雨合羽のフードを押さえながら歓声を上げる。
「たかだか小説の趣味が合うっていうだけのことで他に共通点はないじゃん。それにブンガクってやつ、ぎんのことをなんとも思ってないよ。話を聞いているとさ、むかつくほど身勝手なやつだなって思う。早く忘れた方がいいよ」
 忘れられないから困っているんだけどなあ……。
 イルカはずっと泳ぎっぱなしだが疲れないのだろうか、などと考えているところに、女性の調教師がマイクを介してしゃべり始める。イルカは常に泳ぎ続けることができるんですよー、みなさん知ってましたぁ? しかもですねぇ、驚くべきことに右脳と左脳を交互に眠らせることもできちゃうんですよぉ。たとえばぁ、左脳が眠っているときは右のオメメを、反対に右の脳が眠っているときは左のオメメをつむりながら泳ぐことが、できちゃうんですねえ。世界一、一日を有意義に過ごしている生き物なのではないでしょーか。うらやましいですねえ。寝なくても肌が荒れないんでしょーかねえ。わたしなんてもうすぐ四十路だから寝不足にならないように気をつけているんですよぉ。
「だけどよお、知ってるか?」
 すぐ横にいる中年の男性が、恋人らしき女性に大声で話しかけている。
「野性のイルカは意外に凶暴なんだぜ。子殺しって言ってよ、女とセックスする際に邪魔な子どもをよ、男は殺してしまうんだぜ。女もそれを黙認するだけでよ、さっさとセックスをおっぱじめちまうっていうんだから、かわいい顔をしてやることはちゃーんとやるって寸法さ。へへ、結局欲望なんだよ」
 すると恋人らしき女性が口を開いた。
「男とか女とか――哺乳類を生々しく言わないでよ。オス・メスって言いなさいよ」
「へへっ、どっちにしてもおんなじさ」
 その男性の前歯は、ほぼ空洞の闇におおわれていた。
「ねえ、ぎんー? ぎんったらー?」
 はたちが眉をひそめて呼びかけている。
「何よ、さっきから」
 わたしは今、不透明な意識の中にいる。言うなれば、ぼやぼや――そう、わたしはなんだかぼやぼやしているのだ。ひどくおぼつかない。
「ねえ、おれと付き合おうよ。そんなホームレスなんて諦めなって。おれといる方が断然楽しいって」
 どこからどこまでブンガクのことを話したんだっけ、こいつに? よく覚えていない。ただ、話せばはたちにわかってもらえるという期待があったから、話したのだ――。イルカのショーを見ながら、わたしは言葉を一つ一つ選びながら話したのだ。
 でも。
 結局はたちにはわからないようだ、わたしのブンガクへの気持ちは。
「それで、お願いは聞いてくれるの?」
 わたしはすとんと言った。はたちは絶望的な目をした。
「いやなら他の人に頼むわ。街で適当に声をかければ、誰かが喜んで乗ってくれるもの、きっと」
 そこらじゅうから、わっと歓声が上がる。
「おれじゃ、だめなんだね」
 はたちは遠く近く声を出す。
「うん……わたし」
 水しぶきがここまで飛んでくる。
「わたしはね。ブンガクのことが――」
「いいよ。全部言わなくて」
 わかったから、と、はたちはハリネズミっぽい髪の毛をかきむしる。
「おれ、やるよ。それがぎんの望むことなら、やるよ。やってやるっ!」
 わたしはにこっと笑って、また真顔に戻る。
 プールの真ん中では三頭のイルカがボールをつっついて遊んでいる。
 もう二、三日すればクリスマスだ。
「雪が降るといいね」
 わたしは独り言のように言う。その言葉はちょうど歓声にかき消される。
 え、何? なんか言った?
 はたちが耳を傾けて聞いてくる。
 昼下がりの日差しは優しく悲しく、時間はとろとろと眠たげに辺りをたゆたう。
 ねえ、ぎんー? おーい?

 ぼやぼやしたままはたちと別れ、電車に乗った。
 いつも十分くらいで乗換駅なのに……、と思って我に返ると、自分が乗っているのは各駅停車であることに気づいた。
 知らぬ間に、斜め向かいの席に酔っ払いが横たわっていて、うなされていた。酔っ払いの服装はみすぼらしく、病的な顔のせいでブンガクよりもずっとホームレス然として見えた。
 しばらく酔っ払いを眺めるともなしに眺めていると、大きないびきを一つして起きてきた。わたしと目が合う。酔っ払いは、なんだよお、と言った。何か文句があるのかよお、と。わたしは視線をそらす。周りには数えるほどの乗客しかいない。なおも酔っ払いはぶつぶつ言いながら立ち上がり、ふらふらとわたしの前に歩み寄る。何か言えよ、ああ? 文句があるんだったら目ェ見て言えよ。ろれつの怪しい声で言う。
 車内アナウンスが流れ、聞き覚えのない駅名が告げられる。わたしは軽く会釈して立ち上がる。
 そのときだ。
「うっ」
 という呻き声とともに、酔っ払いは身を縮めて豪快に吐瀉した。
 悲鳴が上がる。酸味のあるにおいが、たちまち空気を汚し始める。
 わたしはそそくさとホームに出る。知らない駅名の看板が目につく。どういうわけか大量のガラス片が散らばっている。片隅に段ボールを敷いて寝転んだ、つぎはぎだらけの服を着たおじさんが、わたしを見ながら醜い笑みを浮かべている。
 階段を駆け下りて改札を抜ける。
 コインロッカーの前で左のブーツを脱ぎ、右のブーツも脱ぐ。そしてその中にブーツを乱暴に押し入れる。鍵を抜き取ったが、もうここへは来ないだろうと、手近のごみ箱にほうり投げた。
 足の裏に地面のでこぼこを感じながらロータリーへ急ぎ、タクシーにすべり込む。靴を履いていないわたしに、運転手はけげんな表情を寄こす。
 わたしは行き先を告げる。
 まだ、鼻先ににおいが残っている。
 帰ったら真っ先にシャワーをしよう――。

 深夜二時。
 わたしは泣いている。
 ブンガクのことで、泣いている。
 どうしてわたしは、いつも無茶なことをしてしまうのだろう。いつもいつもあんなやつに振り回されているのだろう。いつもいつもいつも、すべてが嫌になる。閉じこもっていられるなら、人に会わなくてもいいのなら、わたしは貝として一生を終えたい。できることならずっと殻の中の平穏を抱きしめていたい。
 ブンガクは決まって明晰ではない。目の色彩も、声の調子も、わたしへの対応も、明晰ではないのだ。
 余計わからなくて。苦しくて。やるせなくて。
 よるべがない。
 だからわたしは泣いている。ブンガクのことで、泣いている。
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