FC2ブログ

記事一覧

響けよ、愛しのブンガク(十五)


       十五

 また一つ、ブンガクが教師だったころの思い出を、思い出した。どうして記憶はモグラみたいに予想だにしない場所から出し抜けに顔を覗かせるのだろう。とても不思議。
 あれは小学校六年生のころ、確か卒業式を二カ月後に控えた、雪がさかんに降る日だった。
 創造する心。書き初め。窓の外の銀世界。教室の隅の、ストーブの上のやかん。
 そうそう、習字の時間のことだ。わたしたちは半紙に「創造する心」という言葉を書いていたのだ。
 そのとき、前の席の女の子が決然と立ち上がり、
「せんせいっ!」
 と言った。教室内がしんと静まった。
 自分用の机に座っていたブンガクは、優しい眼差しで先を促した。
「どうしてみんながそろいもそろって『創造する心』なんて平凡で陳腐で下品な言葉を書かなきゃいけないの?」
 下品……ねえ。ブンガクはなぜか嬉しそうにそうつぶやいた。
「そうよ、下品すぎて呆れちゃう。あたし、そんな言葉、書きたくない」
 ほう。ブンガクはうなずく。そして、ため息を吐きながら首を横に振る。
「でも仕方ないんだ。創造する心、というのがこの学校の方針なのでね」
「そんな方針、くそくらえ!」
 女の子は中指を突き立てる。
「同意見だ」
 ブンガクも中指を突き立てる。
 二人のやりとりに、わたしを含めクラスメイトはひどく困惑した。ブンガクと女の子が何を言っているのかさっぱりわからなかった。「創造する心」と書けと言われるので書く。下品だろうが下品でなかろうが、今は習字の時間で、わたしたちは与えられた課題に集中すればいいだけのことである。何をそんなに躍起になって反発するのか。わたしは理解できず、目の前の席の、その子をずっとにらみつけていた。
 ……あの子の名前はなんだったっけ? 伊藤さん? 野口さん? よく思い出せない。うなじがきれいだったことはおぼろげに覚えているけど。
 結局、「創造する心」を書きたくないと頑なに突っ張った女の子は一人、居残りを言い渡された。
 わたしはさっさと教室を出て昇降口へ向かったが、ふと足を止め、また教室に引き返した。他の子たちは放課後の予定を話し合いながら、ぞろぞろと校舎を出ていった。赤と黄色と黒のランドセルが正門を通り抜けていく。わたしはそろりと教室内の様子を窺った。
 ブンガクと女の子が向き合っていた。
 目にした瞬間、みぞおちのあたりが急に空洞になった気がした。そしてそこは空洞のくせに、何かと何かがもつれあっているような、そんな嫌な感じがあった。
 わたしはもじもじしながらも、ブンガクたちの会話に神経をとがらした。
 どうやら女の子は泣いているようであった。机の上には習字道具一式が置かれている。西日のつくる逆光のせいで、ふたりの表情をつぶさに観察することはできない。女の子はときどき肩で呼吸し、書けません、とつぶやいた。ブンガクはその都度、書きなさい、と言った。
「どうして書かないの?」
 ブンガクは問いかける。
「どうしても書きたくないの」
 女の子は答える。
「……だって、創造する心って、みんなが同じように書いてどうなるの? それが後ろの壁に一斉に張り出されるって、ものすごく怖いことじゃない、先生? 個性なんてあったものじゃないわ」
「言葉は同じでも、一人一人の筆跡は違う」
「そんなの、ただのこじつけよ。ねえ、先生。あたしは変わっているの? だから、みんなが平気でやれることが、できないの? それって、劣っているってことなのかな」
「ぼくはきみみたいな子が好きだな」
「でも、あたしみたいな人間は、いずれ淘汰されるわ」
 ふっとブンガクが笑った――ような気がした。わたしは身を乗り出さんばかりにおでこを引き戸の窓ガラスに押しつけて凝視する。
「小学生とは思えないほどきみは卓越している。そんなに早く成長しなくてもいいのに」
「そう、自分でもよくわかっているわ。この頭脳が、何かにつけてアダとなっていることも、ちゃんとね」
「なるほど」
 ブンガクは今度こそはっきりと笑った。くくくっ、と、心底愉快そうに。
「きみは、普通であるべき場所には近づけない。いや、むしろ、近づかない」
「でも――かといって、あたしだけが違う次元にいるわけでもない。みんなが立つ位置にいるにはいるのよ。同等の重みで、並行して、寄り添いながら。でもね、厳密に言えばあたしはそこにいるだけであって、本来いるべきところではない、っていうことなのよ。いわば敵地に乗り込んでいるようなもの。しかも、孤立無援で」
「すばらしい見解だ。ぼくも一度、きみのように自分の内面や状況をじっくりと分析してみたいものだな」
「簡単なことだわ。熱い濃い紅茶でも飲みながら、『わたし』をじっと見つめたらいいの。十五分もかからないわ」
「なら、今度挑戦してみるよ」
 いつの間にかブンガクは教師としての態度や口調――仮面のすべて!――をはぎとっていた。
「でもね先生。自分を分析したからって空しくなるだけだよ。ほとんどの人たちの足もとにはさまざまなレールが敷かれていて、その一つ一つの方角にはちゃんと明るい未来が輝いているの。あたしにはそれがないの。あたしはずっと、ずうっと、同じ場所にとどまっていなければならないのよ。まるで足もとには『踏み越し禁止』の赤いテープが張ってあるかのようにね……」
 女の子の声はどんどんオレンジ絞り機で養分を吸い取られるようにしなびていった。そのかわり、口振りには老成した大人のそれがあった。話せば話すほど磨きがかかり、最早同級生とは思えない雰囲気をまとっていた。
「みんなはすいすい流れていくのに、あたしだけが取り残される。日ごとに痛感させられるわ。みんなは変わっていく。あたしはいつまでも変わらない」
「はたして、流れることだけが、変わることになるのだろうか」
 ブンガクは言った。
「流れに反映されず、そこにとどまることも、ある種の変化なのではないだろうか。流れに逆らえきれず流されてしまう人が多いが――はたしてそれは変わることと同義だろうか。……否、とどまりつづけることも変わることであり、その位置から動くことだけが決して変化ではないとぼくは思うよ。だいいち、変わらなくてもいいとも思う。そこにとどまり続けることがどんなに大変なことか、きみならわかるだろう?」
 女の子はしばし口をつぐんでいたが、
「そうね」
 相槌を打った。そんなふうに考えることも大切ね、と。習字の筆と文鎮をつかんだまま。
「きみはものわかりがいい」
「もしかして、いつも片意地はっているって思ってた?」
「そうじゃないよ」
 ブンガクは笑って、彼女の額の生え際に浅い口づけをした。
 絶望的に映えるシルエット。
 わたしは走ってその場を離れた。
 校舎を出て、近場のスーパーを横切って、横断歩道を渡って。走って、よろけて、もんどりを打つ。それでも立ち上がって走り出す。無我夢中で離れられるだけ離れた。息が濁っても、心臓が割れそうなくらいふくらんでも、足を止めることなく全力で手足を振った。途中、ランドセルのマグネットが勢いよく外れて、うっとうしかった。ときどき手足の振り方がわからなくなって何度も前のめりにつんのめった。
 突然、腰のあたりにひとかたまりの水をかけられた。
 立ち止まって後ろを振り向くと、近所のおばあさんが門前に打ち水をしていた。そしておばあさんの方もびっくりしたらしく、あわてて駆け寄ってきて、ごめよごめんよ、と謝られた。わたしは濡れたTシャツの裾とスカートを眺め、眺めているうちに本格的な悲しみが押しよせてきた。おばあさんはますます動揺してごめんよごめんよと言ってくる。わたしもますます動揺しておいおい泣き始める。
 ごめんよお、ごめんよお。
 おーいおーい。
 ごめんよお、ごめんよお。
 おーいおーい。
 その後、わたしはどうしたのだろうか。無事、家に帰れたのだろうか。次の日、ちゃんと学校に行けたのだろうか。よく覚えていない。おばあさんに背中をさすられているところでぷつりと記憶はとぎれてしまっている。わたしのことだ、あれからしばらくは仮死状態で過ごしたのだろう。
 それにしても。
 なぜそんなショッキングな記憶を今まで忘れていたのか、わたしは自分の脳が不思議でならなかった。もしくはわたしは必死で忘れようとしていたのかもしれない。頭の片隅に追いやるのではなく、完全に一かけらも残さず洗い流してしまっていたのかも。きっとそうだ、わたしは無意識のうちにその記憶を粉々に砕いていたのだ。
 しかし、とうとう思い出してしまった。
 それはあまり気分のよいことではなかった。
 わたしは鬱々としたまま、ブンガクのテントへ向かった。首にマフラーを巻きつけ、ループ糸で編んだセーターの上にムートンコートを羽織り、下は厚手のコーデュロイのズボンという出で立ち。
 ロングブーツの硬質な靴音――。わたしはある決意を固めていた。

「今からデートするわよ」
 七輪の上のやかんから直にラーメンをすすっているブンガクに、わたしは開口一番、今日の目的を突きつける。
 ブンガクはうつろな表情のまま、
「ひさしぶりだな」
 と言った。そして、
「寒いからいやだ」
 とつけ加えて咀嚼行動を再開させる。
 テントの中は、大量の木片と落ち葉で雑然としている。これで寒さをしのごうとしているのか。いよいよこの目の前のホームレスを放っておけなくなった。
「つべこべ言ってないでさっさと立つ!」
 わたしはブンガクの腕を引っ張って無理やり外に連れ出した。
「こんな即席ラーメンなんかよりも、お望みならもっとおいしいものを食べさせてあげるわよ」
「やけに気合いが入っているな」
「知らなかった? デートって気合いがすべてなのよ」
 乾いた冬の風がいやしく吹いている。土手はすっかり色褪せてしまって寂しい。この時期になるとすべてが寂しく、寒々しい。スーツ姿のブンガクには外歩きは酷だろうと考慮し、わたしはとりあえず駅に向かって足早で歩き始めた。ねえ食べたいものある? 聞くと、ブンガクはつかの間の沈黙のあと、駅に行くのなら電車に乗りたい、と答えた。最近ずっとこのへんの景色しか拝んでいないからな、と。
「そう」
 わたしはうなずき、
「じゃあ、急ぎましょ」
 と言って、ブンガクの腕をつかんだ。
 駅へ行くとそのままプラットホームに直行した。ごはん食べてからにしない? と提案したが、ブンガクが早く車窓からの景色が見たいと言って聞かないのだ。めずらしく浮かれているようであった。
 早速、来た電車に飛び乗った。車内にはまばらに人が入っていた。わたしたちはどちらからともなく、連結部分の近くのシートに座った。ブンガクにもたれかかるように、わたしはいそいそとすり寄った。
 車内はむっとするほど暖房が効いている。
 どこからか子どもの鳴き声が聞こえる。
 傘が忘れ去られている。
 ブンガクが息を吹き返すようにしゃべり出したのは、二駅目に差しかかったころだ。
 向こう側のシートに高校の制服を着た少女が座ったのを見て、
「柿本めぐみ、十八歳、神経質気味のA型」
 やつぎばやに小声で言った。
「ただいま学校を早退して帰宅途中。飼い犬のことが心配でたまらない」
「犬?」
 何言っているんだ、こやつは。わたしは訝りながら聞き返した。
「ああ、柿本めぐみは今、犬のことで頭がいっぱいなんだ。見てみろ――顔は青ざめて、視線に落ち着きがない。何かをとんでもなく心配している心理の表れだ」
「勝手に妄想するのはやめなよ」
 忠告するが、ふん、とブンガクは鼻で一蹴する。
「犬の名前はコウジ――小学生のころ初恋だった男の名前だ。犬種はラブラドールレトリバー、黒光りする毛並みがいかにも初恋相手の、浅黒い肌を連想させる。出会った当初、犬のコウジは結構な年齢だったにもかかわらず、柿本めぐみは一瞬で一目惚れし、ブリーダーから譲り受けたのだ。それ以来四年間、柿本めぐみはコウジと一緒に時を歩んできた。しかし――」
 しかし、と、わたしは復唱する。生唾を呑む。ブンガクの語りの世界に吸い込まれていく自分を自覚する。
「最近のコウジはすっかり弱って、午前中に散歩したことを忘れ、食べたことも忘れ、昼夜の見境がつかないときもある。家をふらりと飛び出したきり戻ってこない、なんてこともしょっちゅうだ」
「それって……」
「認知症だ」
「犬にもあるの?」
「ああ、歳をとれば犬だって惚ける。犬の十五歳は、老いぼれのじいさんとなんら変わりない」
 ブンガクは酷なことをしれっと言ってのける。
「獣医から処方される薬もやがて効かなくなり、コウジの夜泣きがひどくなって、やがて柿本めぐみの家族は眠れない日々を過ごすようになる。だから今朝、柿本めぐみの父親はコウジを安楽死させる決断を下したんだ。一時は柿本めぐみも納得した。コウジをもう苦しませなくていい、と。そして学校に行った。しかし、授業中にコウジとの思い出を反復しているうちに――言いしれぬ焦燥に駆られた」
「で、いきなり教室を飛び出してこの電車に乗り込んだわけね!」
 思わず声をうわずらせると、柿本めぐみと視線がかち合ってしまった。まわりの乗客もこちらを見てくる。声がでかい、とブンガクにたしなめられ、わたしは浮かした腰をシートに沈める。
 と、ケータイのけたたましいメロディーが鳴り始めた。またまわりの乗客たちがさまざまな素振り――あからさまに嫌な顔をしたり、咳払いだったり、なぜかニタニタ笑っていたり――をする。
「もっしー」
 着信に応じたのは柿本めぐみであった。
「あっ、ユウヤぁ。うん、どうしたのー?」
 彼女は先ほどまでの鬱蒼とした表情から打って変わって今どきの女子高生像を忠実にたどった態度になった。甲高い声で何やらまくし立てる。猿みたいに手をたたきながら、かなりヤバいよねーそれ、マジうけるー、などと言い、股を広げながら笑う。飼い犬の死を案じる気配はどこにもない。
 わたしは目をぱちくりさせる。
 ブンガクは憮然としている。
 柿本めぐみはケータイ片手に下車していった。
 そのあともブンガクはいろいろな乗客に名前をつけ、色とりどりの即興話を語った。ある者の人生はフランス映画のように華やかで、またある者の人生は場末の演劇のようにうら悲しかった。わたしは興醒めすることなく、真剣にブンガクの語りに耳を傾けた。電車は何度も発車停車を繰り返した。
 いつの間にか車窓の向こうは夕暮れをまたいで暗くなっていた。暈のかかった月がぽっかりと浮かんでいる。
「そろそろ降りるか」
 ブンガクは引き潮のように言った。
「ちょっと待って!」
 わたしはあわてて言った。いよいよここで重い腰を上げることになった。
 今日は渡したいものがあるんだ、と言いながら、バッグの中からケータイを取り出し、それをブンガクの手に握らせる。
「なんだ、これは」
「ケータイよ」
 わたしは、できるだけにこやかに答えた。
「そんなことは知っている。……ぼくは、どういう意味だと聞いているんだ」
「意味も何も、これはわたしからのプレゼントよ」
「なら、結構だ」
 ブンガクはなおざりにケータイを押し返してくる。わたしはそれを拒否する。しばしケータイの押しつけ合いを続けているうちに、少し視界がにじんできた。下まぶたに力を入れて我慢しようとするが、涙は一向に引いてくれない。わたしは半泣きの状態でケータイをブンガクの胸もとにぐいっと押し返す。泣いていることに気づいたのか、ブンガクはそれ以上突きつけてはこなかった。
 わたしは涙が乾くのを待ってから、こう言った。
「まずはじめに、わたしの電話番号を言うから登録してね」
 ブンガクは一瞬、目の奥にけげんそうな光をちらつかせた。
「だって、番号がわからなくちゃ連絡がとれないでしょ?」
「ぼくは別にきみと連絡を取りたいと思っていない」
「わたしは取りたいの。好きなときに話せるっていう確証がほしいのよ」
「携帯電話を持っているといって、そんな確証などどこにも生まれない」
「お願いだから登録してよ!」
 叫んだ。
 乗客が一斉にわたしたちを見るが、ちょうど車内アナウンスが流れ、電車は停止した。ブンガクはいったん腰を浮かしたものの、わたしがまったく動く素振りを見せないと、ため息をつきながら座り直した。
 電車の扉が閉まる。窓ガラスの上を通過するネオンサイン。
 わたしはひそやかに二度三度深呼吸を行ってから、自分のケータイの番号を告げた。
 三十秒ほどの無言ののち、ブンガクはゆっくりとそらんじた。最後の一ケタが間違っていた。わたしがもう一度ていねいに言うと、ブンガクは早くも完璧にそらんじることができた。つぎにわたしはメールアドレスを教えた。それには少々時間がかかったが、ブンガクは暗記することに成功した。てっきり古代人かと思っていたが、ブンガクは意外にもケータイの使い方を知っていた。ある程度使いこなせるようだった。すごい。わたしが感心すると、ばかにするな、という無愛想な声が返ってきた。
「でもどうしてそんなに暗記させたいんだ? 番号もアドレスも登録すればいいだけではないか」
「違うのよ、覚えていてほしいの。ケータイをなくしても、わたしの番号を忘れないでほしいの」
「それが、きみのいうところの『確証』か?」
「そうよ」
「ふんっ、ちっぽけな確証だ」
 わたしは無視して、
「じゃあ、メールを送ってみるね」
 自分のケータイを操作した。内心どきどきしていた。
 呼び出し音が鳴り響き、ブンガクはメール画面を開いた。
 いつまでもわたしなんかに付き合っていられないんだったら、いい加減キリのいいところでじゃあって言って消えてよね――わたしはそうメールを打ったのだ。
 ブンガクはしばらく画面を見つめてから、ケータイのボタンを押し始めた。
 今度はこちらのケータイが鳴る。メールを見ると、
「ああ」
 という二文字だけがそっけなく定住していた。
 わたしは憤懣やるかたない気持ちで立ち上がると電車から降りた。走って駅を出た。
 躊躇はなかった。後悔も忸怩もなかった。ただ、ばかみたいな決意だった、と思った。何を期待していたのだろう? と。
 わたしはすっかり空っぽになってしまった。ひどく体が浮遊している。例の猫の浮いた感じの歩き方を思い出した。あの猫は空っぽだったのだろうか。だから、あんなにふわふわしていたのだろうか。今のわたしには自分の重さが感じられなかった。そのままファーストフード店に入って適当に食べ物を注文した。店内は妙に明るかった。来客はどれも二人以上で会話に勤しんでいる。わたしは世界一まぬけな小動物の気分だった。
 ウエイトレスがハンバーガーとポテトとチキンを運んできた。飲み物を注文し忘れたわたしは一気に水を飲み干した。
 ハンバーガーに食らいつき、ポテトとチキンを詰め込んだ。紙ナプキンで洟をかみ、窓の外の通りを見ては手の甲で涙をぬぐう。その一連の動作は目の前の食べ物がなくなるまで繰り返された。
 くそったれっ!
 わたしは自分でも信じられないほどの悪態をつき、店をあとにした。
 ブンガクを束縛しようとしていた。メイドに扮して失敗したくせに、なおもわたしは諦めていなかったのだ。電話番号もメールアドレスも暗記させて、いつでもわたしのもとに連絡をかけられる状態を保ちたかった。そうすることで、ブンガクがどこかに消えてしまう、会えなくなるという不安から逃れられると思ったのだ。
 そしてわたしは、駅裏の寂れたバーで飲み、
 吐き
 暴れ、
 追い出されたあと、
 バッティングセンターで百キロ未満のボールを打ちまくり、
 またバーで飲み直し、
 吐き、
 暴れ、
 追い出されて、
 千鳥足でぶらぶら歩いているところを、レイプされた。

       *

 頭はアルコールに支配されガンガン鐘を打ち鳴らす。
 もうどうにでもなってしまえ、という諦観と、
 ああやってしまった、という後悔の狭間で気持ちが拮抗する。
 目の前の男の荒い息が顔に吹きかかる。
 快楽が一向に感じられない中、街の灯に磨かれた紫紺の夜空。
 中華料理屋の裏側の駐車場、その一角にとめた車の後部座席。酢豚のにおい。
 ときおり男は、わたしの名前を口にする。
 可愛らしくも馬鹿馬鹿しい。
 どうして男はこうも幼く見えるのか。どうしてこうも煮えきらないのか。
 だから男は女を充足させることが永遠に不可能なのかもしれない。
 わたしは、男のハリネズミのような金髪をそっと撫でてやる。すると男はへらへらと笑い、最後の仕上げに取りかかった。
 激しく揺さぶられて、ごつんごつんと頭が窓にぶつかる。
 窓ガラスを透かしてこの季節に見られる星を探してみるが、
 そこには点描画のような味気ない破片しかない。
 いつもの夜。宇宙規模で見れば取るに足らない夜。
 ……うっ。
 男は小さく呻き、
 わたしの太腿に熱い液体がかかる。
 本当に、いつもの夜。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント