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響けよ、愛しのブンガク(十四)


       十四

 あくび――。
 わたしが長々としゃべると十中八九、彼は眉間に皺を寄せてあくびを噛み殺す。その都度わたしはますます饒舌になるのだが、しかしそれは何も依怙地になっているわけではなく、ただただ彼のあくびを噛み殺す仕種を見ていたいという単純明快な行動理由なのである。つまり、彼は、わたしに不毛な言葉を吐き出させるほどの魅惑的な「あくびの噛み殺し方」を熟知しているのである。
 よってわたしは、「誰彼さんちの家庭事情」やら「行きつけのスポーツジムのトレーナーの肉体美について」やら「我が家の今晩の献立」やらを滔々と述べ続ける。彼は相変わらずうんうんうなずきつつもあくびを噛み殺す。何度も何度も、繰り返し繰り返し噛み殺し続ける。
 といっても、あくびはそこまで劣悪なものではない、むしろその安寧さはわたしたちの関係を友好なものとして保ち続けることにもつながる。事実、わたしたちの関係はそんなこんなで十数年も損なわれずにとどまっている。あくびとあなどるなかれ。
 わたしと彼の隙間に「あくび」の存在がなくなれば、わたしも彼も、お互いを捨てることになるであろう。

 そこまで言うと、突然ブンガクは激しく咳込み出した。
 わたしは鉛筆を置いて、
「そろそろ安静にしておかないと、治らないよ」
 と言った。
「だいたい、何よ……この文章? 熱に浮かされまでして、書き残しておきたいものとは思えないわ」
「何とはなんだ」
 ブンガクは枕もとにあるペットボトルの水を飲み、また寝袋の中に潜り込む。
「あくびのことでなんちゃらかんちゃら言っているのはわかるけど……全体を通して何が言いたいのか、さっぱりわからないわ」
「なんちゃらかんちゃら?」
「そうよ、なんちゃらかんちゃらよ」
「おもしろい日本語を使うんだな」
「ごまかさないで!」
「本当に、わからないのか?」
 ブンガクは意外な顔をし、
「これは、きみのことなんだぞ」
 顎で一枚のチラシを示す。
「わたしのこと?」
「そう、これはきみの視点から物事をとらえている、ぼくの野心と冒険に満ちた文章なのだ。共感を得ると思ったが、まさか『なんちゃらかんちゃら』などと言われるとは……とても残念だ」
「はあ?」
 わたしは自分の字でびっしりと埋まったチラシを見て、眉をひそめた。
「もしかして、この『わたし』って、わたしのことを言ってるの? じゃあ、『彼』っていうのはブンガクのこと?」
「そうだ」
「じゃあ何よ、わたしはブンガクのあくびを見たいがために、くだらない話を続けていて、ブンガクはわたしの話を聞き流しながらあくびを噛み殺しているっていうの?」
「何よりも、ぼくたちの関係を表すのに『あくび』に着目したところが秀逸である」
 ふんっ。わたしは鼻で笑い飛ばす。
「この文章にそえば――ブンガクは魅惑的な『あくびの噛み殺し方』を熟知しているって、わたしが思ってることになるわよね。そんなの不公平だわ、偏見だわ」
「それはあくまでぼくの勝手な見方だ。実際はどうか知らない。でも、きみはそれに近い感情を持っているし、ぼくに伝えようとしている。ちがうか?」
「あーあ、骨折り損とはまさにこのことね」
 わたしは鉛筆の芯で黒くなった手の縁をこすりながら投げやりに言った。首をぐるりとまわすとぽきぽき音が鳴る。三十分くらいずっとうすっぺらなビニールシートの上に座って、猫の昼寝みたいにうつ伏せの姿勢でブンガクの言うことをチラシに書きつづっていたのだ。忠実に。懸命に。ブンガクの一言一言に神経をとぎすませていたのだ。体がきしむはずである。
「きみは、ぼくにあくびを噛み殺させるほどほど、すばらしく退屈な人物だ」
 ブンガクは目の下に憔悴をにじませたまま言った。風邪を引いているくせに何を余裕ぶっているんだか。わたしにはここで看護を放棄する権利だってあるのだ。そのことをわかっているのか。ほんとに、もう……。
「わたしを怒らせない方がいいよ」
「ほう」
 ほう、とはなんだ、ほう、とは。わたしはますますイラつく。
「ここに来てみりゃブンガクがうなされているから――わざわざ氷を買ってきて氷のうをつくってあげたり、一時間ごとに熱を測って、タオルを清潔なものに替えたり、あげくに書記係までやらされて、わたしが怒らないと思う?」
 そうなのだ、わたしは町長の形見である寝袋を渡しに来てやったのだ。その上、甲斐甲斐しく看病までしてやってるのに、その態度はなんだ、その態度は。少しは言動を慎んだらどうだろうか。もっとわたしに敬意と感謝を払ったらどうだろうか。
「ぼくだったら、怒るだろう」
 ブンガクはにやりと笑い、だが、と補足する。
「だが、きみは怒らない。ぼくは知ってしまったんだ」
「何を知ったっていうのよ」
「わざわざ説明するまでもない。胸に手を当てて考えれば容易にわかることだ」
「病人のくせに! ホームレスのくせに!」
 わたしが怒りまかせにペットボトルでたたくと、ブンガクは寝袋の中に完全に潜り込んでしまった。大型トラックだろうか、橋の上を重い車体が走り抜ける豪快な音が響く。それは何台も連綿と連なって、わたしの耳をおびやかす。
 そこでふと、わたしはいったい高架下でこの物乞いと何をしているのだろうと、正気に戻った。とてもひさしぶりの正気だ。するとたちまち目の前がクリアになった。さっと霧が晴れた感じ。鮮明なのだ――足もとのビニールシートの青も、目の前の貧弱なテントも、そこで寝ているブンガクも。日差しも、川のせせらぎも。新しい光景だ、そこここが白々と冴えわたっている。わたしは今、長年苦しめられていた病が治ったようなすがすがしい気分だった。
「……なあ」
 ブンガクがひょこっと寝袋から顔を出して言う。
「何よ」
 わたしはなかば上の空で答える。
「シャツ、汗でびしょびしょなんだ。替えを買ってきてくれないか」
「知らないわよ。自分で買ってきなよ」
 うれしい。わたしはもうブンガクなんぞに左右されずにすむのだ。
「こんな寒い日に濡れたシャツ一枚でいたら風邪どころの騒ぎじゃないかもしれない。肺炎をわずらうかもしれないし、このまま凍死してしまうかもしれない」
「知らないったら知らない」
「もしかして怒っているのか?」
 ブンガクはようやくわたしの変化に気づいたようだ。
 わたしはバッグを持って立ち上がった。できるだけ毅然と。
 そしてやや気取った立ち姿でブンガクを見下ろす。どうして今まで、この髭面の男に恋情なんてものを抱いていたのだろう。実らない果実をいつまでも待つほどわたしは従順ではない。だからもう虚構の世界を走り回るのはやめだ。目が冴えているうちにきっぱりと身を退くのだ。
 にこりと笑う。さようなら、ブンガク――。
 わたしは石段を上り、土手に沿って歩いた。コートの襟を立てる。首がすっぽりとムートンに包まれて温かい。わたしはさっきから笑いをこらえるので必死だ。自分がブンガクを捨てたことによる高揚。それが笑いとなってどんどんせり上がってくるのだ。
 と。
 ――それでよかったのか。
 いきなり男性の声に呼び止められた。
 足もとに、いつの間にか一匹の猫がやってきていた。ブンガクが「猫」と命名した、薄汚い片目の野良猫である。
 ――きみは今、自分が正常に返ったと思っているようだけど、それはちょっとちがうな。
「なんであんたなんかにわかるのよ」
 わたしはうっとうしく思い、少し歩調を早める。
 ――ただきみは不安なだけなんだ。
 猫は呑気そうにてくてくついてくる。脚が二、三ミリ浮いているのではないかというくらい軽やかで優雅な足並み。
 ――いつになってもブンガクに愛されないままだからね。
「たかが猫のくせに知ったかぶりしないでよ」
 ――たかが猫だからこそ、知ったかぶってもいいのさ。
「ふんっ、野良のくせに」
 ――認めましょう、ぼくは野良です。ピュアです。
 何がおもしろいのか、猫はくすくす笑いながら言う。
 ――一種の飽和状態とでもいえばわかるだろう? きみは欲求不満の限界を超えて頭が混乱しているんだ。
「混乱も何も、わたしは今すごく気分がいいの」
 ――だからそれが混乱なんだ。
 わたしは黙った。すると猫も黙った。わたしたちは並行して歩き続ける。土手沿いはそのものが生き物であるかのように、ゆるやかなカーブをずっと先まで描いている。
 前方に駅ビルが見えてきたとき、猫がふたたび口を開いた。
 ――ぼくの自慢は、やわらかくて繊細なこの毛並みなんだ。ただ、汚れているからわからないだけで、触ってみればすぐにわかる。触ってみたいか?
「いやよ」
 ――ひと撫ででいいから触ってみろ。
 拒否するのも疲れるから、わたしは中腰になって猫の背中をなでた。
 人差し指の腹に、絹のような心地いい感触の流れ。密度の濃い、細く切ない毛。
「驚いた」
 わたしは素直に感想を漏らした。
 ――ぼくは何ごとにも無頓着な方だが毛繕いだけは怠らないからな。
 猫は自慢げに言い、先に歩き始める。
 ――あいつだって同じだ。
「あいつ?」
 ――ブンガクのことだよ。
 わたしはなぜか伏し目がちになる。
 ――あいつもぼくも同じくらい無頓着で自分だけにしか興味がない。ぼくたちは未熟な野良だ。きみは誰よりもそのことを理解していると思っていたんだけど……。
「わたしにどうしろっていうのよ」
 ――別にどうもしなくていい。あいつの横にいてやればいいんだ。
「そんなの、こっちの身が持たないわ」
 ――きみは見える愛を求めているようだが、確かに、いつまでも不透明なものに振りまわされていても疑心暗鬼になるだけだろう。気持ちはよくわかるよ。
「よくわかる? ブンガクと同等のくせに?」
 ――ああ。ぼくたちは孤立しているから、人の気持ちに余計敏感なんだ。
「敏感? 笑わせないで!」
 ――いや、本当だよ、ぼくもブンガクも弱くて繊細なんだ。
「だったらわたしの気持ちを」
 ――わかっているんだ。
 猫は言下に制して、言う。
 ――きみの気持ちも自分の気持ちもわかっているんだ。なにせ弱くて繊細だからね。でも。
「でも?」
 ――怖いんだ。
 わたしは眉間に皺を寄せる。
 ――物事を進める、もしくは速めることに、恐怖があるんだ。波を立たせなければ波間で遊んでいる子が溺れることもない、干潟に築かれた砂の城を崩さなくてもすむだろ? ぼくたちは、そんなことをしたくないんだ。できないんだ、臆病だから。
「そんなの……言いかえれば、たんに傲慢なだけじゃない」
 ――ああ、そのとおりだ。
 猫は機嫌よさそうに尻尾をくるくると回した。
 ――なあんだ、ぼくがいちいち説明しなくてもよくわかっているじゃないか。しかし、ただ一つ、きみは気づいていないことがある。
「何よ」
 ――あいつも、きみのことをそれなりに愛しているってことだよ。
「それなり、って何よ」
 ――さっきも話したように、あいつは自分を一番に愛している。だから、きみは二番目だ。それじゃあ不服かい?
「ていうか、そもそもブンガクに愛なんてないよ」
 ――あるよ。
「ないって」
 ――なかなかの強情っぷりだ。わけてほしいくらいだな。
 心なしか、猫が肩をすくめているように見える。
「うるさいわねえ」
 わたしはつっけんどんに言い放つ。
 かといって、言動とは裏腹にそこまで気分が悪いわけでもなかった。片目の猫と話すひとときはなぜか心地いい。
 やがて視界が開け、大きな交差点に出た。とたんに自動車や人の往来が激しくなった。色とりどりの建築群。耳をつんざく喧騒。ゴミ袋を探し求める二羽のカラス。
「そんなに言うのなら試してやるわ。それでも、ブンガクがわたしに対してなんの反応も見せなかったら――」
 そこまで言ってふいに見下ろすと、猫は、もうどこにもいなかった。

 夜。
 わたしは寝床で天井を見つめている。
 器のことを考えている。
 なんでも律義に受けとめられる器があればいい、と思う。願うように、思う。ブンガクの感情も思想も、過去も現在も、もちろんわたしのすべても、好きなときに好きなようにその中に入れられて、好きなときに好きなように取り出せたら、言うことは何もない。
 で、その器の中でときどきブンガクの感情とわたしの感情を取り換えっこして、どれほどわたしの感情が破裂しそうなものかブンガクに味わわせてやるんだ。
 もっとも、そんな器があれば、の話だけど――。
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