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響けよ、愛しのブンガク(十三)


十三

 一週間後、千明から手紙が届いた。それは予期しない、うれしいプレゼントだった。
〈先日、金縛りにあいました。はじめてのことです。〉という突拍子もない書き出しに、わたしはたまらず吹き出した。右上がりの自由で奔放な筆致。便箋から立ちのぼる知らない土地の香り。人に手紙をもらったのは、いつぶりだろう? わたしはそんなことを思いかえしながら読みはじめた。

〈昼間、宿泊先の古い侘びしい部屋でうとうとしてたら、ピーンッ! と体の融通が利かなくなったんです。突然。なんだなんだ、と頭の中では大騒ぎするんだけど、声を出すことすらできなくて、手も足もかちかちに固まってしまって、にっちもさっちもいかなくなったんです。吟子には金縛りの経験はありますか? もしないのなら、お昼に寝るのだけは避けてください。金縛りは、お昼の疲れた体にやってくるらしいです。
 それで身動きできないあたしのところに、一人のおばあちゃんがどこからともなく、ふらー、と来たんです。でも、おばあちゃんは愛らしい皺くちゃの顔で、黒いカーディガンをはおっていて、そのカーディガンの胸もとについているビロードのリボンがとてもかわいくてお茶目で、もし金縛りなんかじゃなかったら、あたしは思わず抱きついてしまうだろうくらい、愛嬌のある風貌でした。おばあちゃんはあたしの体の上に正座して座り、あたしを数十分間眺めていました。そしていきなり口をにっと広げ、ところどころ欠けた歯並びの悪い歯をむき出しにして、あたしに向かって合掌すると、そのまま何事もなく消えてしまいました。無事、あたしの金縛りは解けました。
 その話を宿舎のみんなにすると、宿主がこう言うんです。
 おばあちゃんの歯はひどいものだったろ? それはトウモロコシの食生活によってやられたんだよ。うん、そのおばあちゃんはかつてマチュピチュで暮らしていた人なんじゃないかな。きっとあなたは、おばあちゃんの招待を受けたんだ。マチュピチュに入っていいって認められたんだよ。ようこそっ、マチュピチュへ!
 するとみんなが一斉に手をたたきはじめました。そのうち部屋にいた人たちも話に加わってきて、やんややんやとはやしたててきました。宿主は奇跡的に毛深い人で、ここに集まってくる人たちはみんながみんな、いつも酔っぱらっていて下品な話と下品なジョークが好きだけれど、本当は優しい人ばかりです。
 宿主の話は、あたしを怖がらせないための嘘だとすぐにわかったけれど……でも、うん、あたしはおばあちゃんから許可をもらったのだと信じることにしました。そしてそんなロマンチックな嘘をこともなげにつける宿主や、この地域の人たちをますます好きになりました。
 というわけで、あたしはあたしなりに楽しくやっています。毎日いい人たちに囲まれているから心配は無用です。ビールが最高においしいです。毎日がPARTYです。
 気が向いたらまた手紙を書きます。じゃあね、ばいばい。〉

 屈託のない文章は本当に千明らしかった。わたしはそれを三回読み直し、時折便箋を胸に押し当ててはくすくす笑った。
 もう一つ、写真も添付されていた。それは大きな石垣を背景にピースサインの千明が映っているものだったが、わたしは彼女の外見にひどく驚かされた。一瞬、誰? と疑った。
 千明はずいぶんと勇ましく肥えていた。
 それからわたしは手紙と写真を机の一番上の――鍵付きの――引き出しに仕舞って、今日中にしなければならない用事をさっさと片づけることにした。夕食はなんだか作る気になれなくて、コンビニのおにぎりとポテトに温野菜の付け合わせと缶コーヒーで簡単にすませた。
 テレビを観ている最中、救急車と消防車のサイレンが遠く近く聞こえた。
 なぜか右足の親指と人差し指の間が、無性にかゆくなった。
 わたしは体育座りでテレビ番組を三本立てつづけに観た。
 そろそろ○○○を買おう。何かの拍子に思った。が、すぐに忘れた。
 ゴキブリが台所と部屋の境目を行き来していた。
 そのゴキブリに気をとられていたせいで忘れてしまったのだ。
 何かを買おうとしていたことだけはぼんやりと覚えていたので、しばらくの間、何を買おうとしていたのか思い出そうとした。
 食器?
 家具?
 洋服?
 結局、思い出せないものは思い出せないのだと思い至り、諦めた。
 眠る前にもう一度、写真の中の千明を見た。
 やはりわたしの知っている彼女とはだいぶ違っていた。
 それは新しい生命をはらんでいるだけでは説明がつかないほどものすごい肥え方であった。
 でも、よく見れば彼女の面影がちゃんと残っていて安心させられた。
 きっとこれはしあわせぶとりなんだ。
 そう、千明はようやく解放されたのだろう。
 深夜。
 波と波の間の「しじま」に、揺れがある。
 わたしはその揺れを眺めている――。
 そんなささやかな、不思議な夢を見た。

 町長が死んだ。その情報はブンガクによってもたらされた。
 早朝、例の川へ行くと、
「昨夜、町長が倒れたらしい。すぐに病院に運ばれたが、だめだった」
 川の前に立っているブンガクは、わたしの方を見ずにそう言ったのだ。
 え? と答えるのが、わたしには精いっぱいだった。頭の中に一つ、また一つと空白のしみができていく。
「近所の者たちが脳卒中だと話していた」
 ブンガクはたんたんと語った。そこには感情も、息づかいも、生命力も感じられなかった。それがやけに悲しみをかもし出していた。
「今日にも通夜が行われるようだ。……惜しい人を亡くした。ぼくはひさしぶりに泣きたい気分だよ」
 最後に身近な人を亡くしたのはいつだったろう。父方の祖母だったか、親戚のおじさんだったか。このごろは人の死から遠ざかっていたわたしだった。なんだかわたしも泣きたくなった。
 もっとも、町長とはそんなに親しかったわけではない。ブンガクとバスの上でお弁当を食べた日に少し話しただけで、今、こんなにも悲しみの空白に耐えなければならないほどの間柄ではないはずだ。それなのに、わたしは町長のあの、人柄のよさそうな顔を思い出しては、泣きたくなった。たった数分の思い出でも、一瞬の邂逅でも、「縁」とは侮れないくらい強烈だ。
 向こうの河川敷に子どもが二人いて、三つ編みの女の子が、猫背の男の子に身振り手振り交えながら何やら怒鳴っていた。どちらも年格好は十歳前後といったところか。従順そうな男の子はうんうんとうなずいてから、小石を一つ拾い、サイドスロー気味のフォームで投げた。小石は水面で一回跳ねただけだった。すぐさま女の子が怒鳴り声を上げた。何よ、あれ。全然なってない。もっと腕を振りきらなくちゃ、などと叱咤している。どうやら水切りのやり方を教えているようだった。
 ブンガクは子どもたちにまなざしを向けたまま、
「死とは、子どもに帰るという前提のもとに成り立っているものだ。そう思えば、悪くない」
 静かな声だった。
 ブンガクはうっすらと涙を浮かべていた。
 どきっとした。見てはいけないものを見てしまったときのような。わたしはあわてて目をそらした。所在ない。いてもたってもいられない。
 子どもたちはまだ水切りの練習に励んでいる。
 鳥の影が川面を抜ける。
 しかし、とブンガクは吠えるように言った。
「――しかし、それは死人にとっては悪くない見地であるが、残された我々には慰めにもならん。死人がどこにいこうが、仏になろうが霊になろうが、ありていに言ってしまえば――知ったことではない。我々は確固たるものしか信じない。だから、こんなに悲しいのだ。だから、こんなに愚かなのだ。町長を気持ちよく死なせてやることもできやしない。ぼくは今、自分のために泣いているだけかもしれない。町長の死を穢しているだけなのかもしれない、死の邪魔をしているだけなのかも……なあ、きみはどう思う?」
 ふいに聞かれ、わたしはひどくうろたえた。これまでにブンガクから質問を受けたことなどあっただろうか?
「わたしは……残された人たちが泣くのは、いいことだと思う」
「なぜ」
 問い詰めるようにブンガクが言う。
「なぜ、そう思うんだ?」
「……そりゃあ、結局はわたしたちの自己満足かもしれないけど、それでも泣いて涙を流して、死んだ人の思い出をきれいに洗ってあげるのは、いいことだよ、きっと。涙でぴかぴかに洗ってあげればさ、その洗いたての思い出をずっと忘れずに仕舞っておけばさ、死んだ人も喜んでくれると思うよ、どこかで。人が泣くのは、古い思い出を洗って仕舞っておくための準備なんだよ」
「ふん。少女趣味の答えだな」
 わたしはむっとして、
「ブンガクさあ、泣きたいときは素直に泣けばいいじゃん」
 言わないでおこうとしていたことを、ついに口にした。
「泣いても故人が喜ぶわけがない云々言って、自分の悲しみを誤魔化してないでさあ、悲しいんだったら悲しいって素直に吐き出しなよ。こんな日に屁理屈こねないでよ、マジでうざいから」
「うざいとはなんだ!」
 心外だ、という顔でブンガクは振り向いた。
「うざいったらうざいのっ!」
 冬枯れの草のにおいを引き連れた風が、さあっと、まつげの上を流れていく。対岸の子どもたちがこちらを見ている。
 ブンガクは下唇を剝いて、川に向き直る。そしてしばらくしてから、
「疲れるよ」
 と言った。ささやかな声で、
「きみといたら、ひどく疲れる。少しそっとしておいてくれないか」
 と。
 そのとたん、それまで我慢していた涙腺が一気にゆるんで、わたしは涙をぼろぼろとこぼしはじめた。嗚咽をなんとかこらえながら一言、
「はい、わかりました」
 言いきると同時に、石段を必死で駆けのぼった。
 もっと強気に言ってやるつもりだった、本当はもっと厭味ったらしく言ってやるつもりだったのに。実際、表に出た声は弱々しいものだった。そのことが無性に腹立たしくもあり、情けなくもあった。
 わたしは全速力で走って逃げた。

 しかし、落ち込んでばかりいられない、と決起したのは昼過ぎのことで、わたしは急いで実家に帰った。十カ月ぶりの帰省である。
 呼び鈴を無視してがらり戸を開けると、偶然にも母が濡れ雑巾で上がり框を拭いているところだった。頭に三角巾を被った割烹着姿の母は、わたしを見るなりにっこりと笑って、おかえりなさい、と言った。なんとなくあんたが帰ってくる予感がしたから掃除していたのよ、と、泣かせることまで、言った。事実、わたしは泣きたくなった。でも、泣くまいと――奥歯を噛みしめて涙を阻止した。玄関の土間に突っ伏して泣く娘など誰が演じてやるものか。そんなのはまっぴらごめんだ。母だって、こう思うにちがいない。土間に突っ伏して泣く娘を抱きしめる母親の役なんて、ごめんだ、と。わたしは素直な娘でないし、母も母で、照れくさいことは苦手なたちだ。
「ハハよ、見ないうちにだいぶ老けたな」
 わたしは腕を組んでそう言い放った。
「おお、ムスメよ。昔の愛嬌はどこへ行ったのやら」
 母も目をぱちくりさせながら両手を広げ、そう言った。
 それから、わたしと母は炬燵に入って、お茶しながらぽつぽつと会話を交わした。盛り上がるわけでもなく、かといって尻すぼみでもなく、それは質実な会話であった。日用品について、租税のうんちくについて、同級生のだれかれについて。
 母もわたしも、意識は半分テレビ画面に向けられていた。ワイドショーなんて、お互いに好きでもないくせに。
 結局――。
 わたしは、ブンガクのことにも、千明のことにも、町長のことにも、一切触れなかった。どういうわけかわたしには「自分の世界」と「母との世界」を別個に扱っているふしがある。それは何も母との関係に限ったことではない。年を取るたびにいろいろなものがわたしの中で切り離されていくのだ。たとえば子どものころは、すべてが一つの世界の中でくくられていたのに、今やわたしは勝手にいくつもの「せかい」をつくっていて、さらにいくつもの「ものごと」を選り分けて脳みその中に収納している。だから、母とのわたし、ブンガクとのわたし、千明とのわたし、社会とのわたし、というふうに「わたし」がつぎつぎと生産されているのである、面倒なことに。
 いったい「わたし」の本体はどれなのだろうか。多すぎて見当もつかない。母と話しているときだって「わたし」は「わたし」ではないのかもしれない、と思ってしまう。思って、混乱してしまう。せめて母の前では本当のわたしになりたいのだが、どうもうまくいかない。スイッチが見当たらないのだ。
「ねえ、ハハ」
「何よ」
「喪服ってある?」
「どうしたの、葬式でもあるの」
「うん、知り合いが死んじゃったんだよね」
「あらまあ」
「ハハのでもいいから貸してくれない?」
「いいわよ。ハハのでよければ」
「ありがとう」
 わたしがお茶をすすると、母は遠いため息をついた。
「なによさっきから、ハハ、ハハって」
「ハハはハハじゃん」
 母はしばしわたしをにらんでいたが、
「まあ、いいわ。よしとしましょう」
 と立ち上がって、喪服はどこにやったかしらね、とつぶやきながら納戸に向かった。
 わたしは湯のみを茶托に置き、
「オカアサン」
 と、ひとりごちてみる。目をつぶって、この反響に耳を傾ける。それはだいぶ違和感のある響きに思えた。
「母」と言えば「ハハ」に聞こえる、「お母さん」と言えば「オカアサン」に聞こえる。今日はなぜかそんな日のようだ。第一声が悪かったのかもしれない。もしかしたら心構えが足りなかったのかもしれない。でも、今となっては仕方がない、今日一日は「ハハ」で通そう。時間が経てば、また違ってくるだろう。
 わたしは右手にみかんの詰まった袋を提げ、左の脇に喪服を包んだ風呂敷を抱えて、タクシーに乗り込んだ。
「ハハよ、さようなら」
「ムスメよ、さようなら」
 運転手のけげんそうな目許がルームミラーに映っている。
 母は、くははっ、とへんてこりんな笑い方で笑った。
 わたしもつられて笑った。
 タクシーがなめらかに走り出す。わたしの目線は、見えなくなるまで母にすがりつき、母もわたしの目線にしつこくからみついていた。美容院の角を右に折れると、わたしと母をつなぎとめる線はあっけなく断ち切れた。
 笑いながら家に戻る母の姿を思い浮かべ、わたしは吹き出した。
 くははっ、と声を出した。

 葬儀は雨の中で執り行なわれた。
 それはけぶるような細い秋雨で、恒常的にじっとりと降った。音も際限もなく、軒をつたって落ちる雨だれすらどこか慎ましかった。弔問客の肩は雨に濡れ、かすかに饐えたにおいを漂わせていた。誰もが神妙な顔をつくり、おしなべて哀悼の意を捧げていた。その背後では、町長の人望がどれほど厚かったかという確証が見え隠れしていた。
 ブンガクを待ったが、いつになっても彼の姿は見えなかった。昨日はあんなにも悲しんでいたくせに、葬式に出ないつもりなのだろうか。わたしは受付の前で傘を差し、ブンガクを待った。しかし、出棺になっても彼が来ることはなかった。
 町長が荼毘に付す――そのころ、わたしは公園の地球バスのまわりをぐるぐると歩き回っていた。なんだかこのまま帰りたくなかったし、ばかなことに、なおもブンガクを待っているのだった。
 わたしは数えきれないほど繰り返し繰り返しバスの外側を回った。五十周を超えたあたりで急激な吐き気に襲われ、軽く戻した。朝から何も食べていなかったので胃液しか出るものがなかった。わたしはその胃液を見つめ、愛でる。黄色い液はたちまち雨ににじんでいった。また公転を再開した。それはまさに公転と呼ぶべき行為で、わたしは何かに寄りかかって動いていないと今にも壊れてしまいそうなくらい、危うかった。弔問客の視線など気にしてはいられなかった。回って、回って、回って……。わたしは声をかけられるまでバスのまわりを循環し続けた。
 声をかけてきたのは、町長の妻であった。弔問客一人一人に頭を下げていた気丈な姿が印象に残っていた。もしもし、と呼ばれ、わたしはぴたりと停止したのだ。
「もしもし」
 町長の妻は亀みたいに首を伸ばして、もう一度言った。ほがらかな甘みのある声。首の、薄い皮に浮かんだ筋。町長よりもいかほどか背が高い。
 はい、と、わたしは答えた。
「田中さんとお知り合いの方では?」
 田中さん? わたしは困惑した。が、すぐにひらめくものがあった。
「ブンガクのことですか」
「はあ?」
「えっと……少し前にこの公園で暮らしていた、ホームレスのことですか」
「ああ、そうですそうです」
 町長の妻は嬉々として手をたたいた。肩にかけた傘がずり落ちそうになったので、わたしはあわてて手を差し伸べた。
「今日彼を見かけたら渡そうと思っていたものがあるんですよ。でも、姿が見えないものだからどうしようか困ってしまって……代わりにあなたがいてくれてよかったわ。主人が生前、どうしても田中さんにと、買っていたものがあるんです。わたしの代わりに届けていただけませんか?」
「はあ……それはなんですか?」
 そう聞くと、町長の妻は一つうなずき、わたしを家へと誘った。すすす、と歩く彼女に、わたしもすすす、とついていった。
 次の間と客間の襖がきれいに取り払われ、精進料理がずらりと並べられている。親類の人たちがしんみりと話し合っている。
 こぢんまりとした殺風景な和室に通された。主人の部屋です、と町長の妻は言い、押し入れから何やら引っ張り出した。
 町長がブンガクのために買っていたもの――それは、キャンプ用の寝袋であった。
「どうですかな、田中さんは気に入ってくださると思いますか?」
 町長の妻は、ふくらむ感情を抑えきれぬ様子だった。
「ああ、はい……気に入ると思います」
 わたしは寝袋をなでながら言った。弾力のある、しっかりした、あたたかそうな、いい手触りであった。
「主人がねえ、こんな寒い時期を越すにはテントだけじゃ大変だろうと、田中さんのことをえらい気にかけていましてねえ、それで寝袋を買ったんです。でも、知らない間に公園からいなくなってしまわれたものですから……渡せず仕舞いになってしまって。テントを渡すときに、この寝袋も一緒に渡せばよかったって、ずっと悔やんでいたんですけど……でもこれでようやくこの寝袋が田中さんのもとに行くわ。主人も安心して成仏することでしょう」
 町長の妻はそこでいったん息を吐き出してから、そういえば、と、話を継ぐ。
「そういえば、あの人ったら、集中治療室で一瞬意識が戻ったときがあってねえ、そのときに『……寝袋を』って言い残して死んじゃったのよ。ふふふ。この人と結婚して正解だったわって、思っちゃったわ、わたし」
「どうしてあんなホームレスのことを、そこまで気にかけるんですか!」
 わたしは思わずそう口走った。
 町長の妻は、ふふふ、と口もとに手を添えて上品に笑う。
「さあ、どうしてでしょうねえ」
 また、ふふふ、と笑う。ふふふと笑いながらすすす、と台所へ移動する。現実味のない挙措。日本茶でもいかが? 満面の笑み。ふふふ。すすす。テーブルに湯呑みと急須と茶こしを並べる。良妻賢母。わたしはその言葉の意味を実感する。胸が、つまった。
 もうしばらく彼女と話をしてから、わたしは町長宅をあとにした。
 町長は、ブンガクをとても気に入っていたようだった。ブンガクにバスを貸したその日から、町長は毎日のようにブンガクのことを妻に報告し始めた。ラジオを貸すと彼はラジオ体操をやり出した、とか、彼はどうやら太宰治の本ばかり一心不乱に読んでいる、とか、今日は彼のもとに若い女の子がやってきた、とか、その女の子は恋人のようで恋人ではないらしい、とか――。わたしもその報告を日々楽しみにしていたのよと、町長の妻は別れ際に言った。
 わたしは寝袋を小脇に抱えてアパートに帰った。
 何度も、逡巡した。ブンガクのところへ行くか行くまいか。
 町長の形見をすぐにでも渡してやりたかった。ブンガクが町長の死を誰よりも悔しがっていることも知っていたから、なおのこと。だけど、やめた。それもこれも来なかったバツだ。町長の奥さん、あんなにいい人だったのに。
 その日の夜、わたしはいつもより早く寝ることにした。いそいそと寝袋に潜り込む。なるほど、確かに橋の下で寝ても越冬できそうな温もりがそこにはあった。かすかにナフタリンの匂いがした。
 まぶたの内側に町長の姿がちらつく。
「……寝袋を」とうめく町長。
 わたしは、ふふふ、と笑うだろうか。泣くだろうか。怒るだろうか。
 ためしに、ふふふ、と笑ってみたものの、ちっとも品のない笑い方だった。
 良妻賢母。
 小さくつぶやき、ゆるゆると首を横に振る。
 まったく、かなわないな。
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