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響けよ、愛しのブンガク(九)


       九

「吟子」
 電話に出たとたん、自分の名前を呼ばれた。
「吟子なんだな」
 わたしはトイレの掃除をしている最中だったので、左手に不衛生なたわしを持っている。たわしを見つめ、電話の向こうに耳をすまし、またたわしを見つめる。それでも向こうは辛抱強くこちらの返事を待っているようだった。
「チガイマス」
 わたしは機械的に言った。
「やっぱり吟子だ」
 相手は確定的な言いかたをした。すこしだけ、声に安堵がふくまれていた。
「チガイマス」
「からかわないでくれ」
「カラカッテナドイマセン」
「しかしまあ、そんなところに住んでいるとはな」
 ため息がノイズをつくる。
「お願いだからもう、ぼくを困らせ――」
 わたしは機械的に受話器を置き、機械的に便座の清掃に戻った。機械的にたわしをこすり、機械的に汚れをチェックし、機械的に思考回路を停止させた。わたしはまさしく人型ロボットであった。もうすぐスクラップ行きの、かわいそうなロボ。
 だから、もうすこしだけそっとさせておいてほしい。

 それからしばらくしてまた電話がかかってきた。でもそれはケータイのほうで、ディスプレイには「ちあき」という見慣れた名前が表示されている。
 わたしはかすかにびっくりした。二度と会わないだろう、と、なぜかそんな直感が働いていたからだ。
「いま、暇?」
 三週間ぶりの、千明の声。
「うん、暇だけど」
「なら、お見送りに来てよ。いまのあたし、彼氏も、ろくに友だちもいないから淋しいんだ。淋しいまま旅立つなんて、なんだか癪じゃん」
「え? どこかに行くの?」
「前にも言ったけど、マチュピチュに行くのよ、これから。でも、夜の便だからまだまだ時間はあるのよ」
「……ほんとうに行っちゃうんだ」
「ふふんっ。行っちゃうんですよねー、これが」
 千明はいま、空港のロビーでかけているらしい。
「ここのティールームにいるから来なよ。一緒にお昼ご飯食べよう」
 じゃあ待ってるよん、と千明は言い残して、通話を終えた。
 わたしは早速タクシーを呼んで、空港のターミナルビルに急いだ。今日は門出にふさわしいくらいの日本晴れだった。なにはともあれ、しりきれとんぼの別れにならなくてよかったと思った。
 さまざまな喧騒の波をくぐって、構内の喫茶室に行った。窓際の席で千明が手を振ったので、わたしも手を振った。千明は真っ赤な口紅を引き、鋲を打ったワイルドなジャンパーにダメージ系のジーンズという出で立ちであった。左目の青痣には触れず、わたしは真向かいに座った。
「ひさしぶり、吟子」
「うん、ひさしぶり」
 挨拶もそこそこにわたしはたらこパスタとドリンクバー、千明はパンの詰め合わせとコーヒーのおかわりを注文した。ここのウエイトレスの服装、かわいいよね。千明は言った。うん、すごくかわいい。わたしもそれに賛同した。
「そういえば、あのいっぱいあったコスプレ服はどうしたの?」
「処分したよ」
「なあんだ。わたしが買いとってあげてもよかったのに」
「着ないくせに」
 軽く笑いあった。ウエイトレスが料理を運んできて、わたしたちは食べることに集中した。そばに千明がいる、と思うと、おなかが急激に空腹を訴えた。わたしは人目をはばからずパスタをつるつると流し込んだ。千明はそれをうれしそうに眺めながら、パンを少しずつちぎっていた。店内にはクラシックの音楽が流れていて、ドビュッシーよ、と教えてもらった。
「クロワッサンのこのすかすか感がたまらないのよね」
 千明はクロワッサンの肌理の粗い中身を見ながら言う。
「食べているうちにどうにかしてこの空洞を埋めてあげたくなるのよ。でも、そういうお節介は相手にとってウザイだけなんだろうね」
 男のことを言っているのだ、と、すぐにわかり、わたしは口の中のパスタをあわててジュースで流し込んだ。
「あたしはずっと、自分が献身的に尽くしてあげているって思ってた。相手もそれで満たされているんだって、思おうとしていた。暴力は愛情の裏返しなんだ、照れ臭さからくるものなんだ、ってね。ばかでしょ、あたし」
 わたしは何かを言うために口を開いたけれど、いったいどんな言葉を伝えようとしていたのか一瞬のうちに忘れてしまった。ただ、偽善的に言うふりをしただけかもしれない。そもそも今の彼女は何一つ望んでいないようだった。どこか吹っ切れた雰囲気がそこにはあった。
「彼から暴力を受けていたときは、奇妙な快感に浸っていたんだわ、きっと」
 千明は言った。ふしぎな微笑をたたえて。
「見慣れた場所さえも輝いて見えたの。湖の水をすくいとるように、いつもあたしの手のひらには清潔なものがそそがれているように思っていたの。歩くだけでうれしいし、走るともっとうれしくなった。思いっきり伸びをするだけで感動したし、ノートに彼の顔を書いてそれを見ているうちに日が暮れた。彼が家に来て勝手に暴力をふるわれて、だけどあたしは満たされていたのよ、一日一日」
 でも、そんなの。言いながら、千明はクロワッサンをむしりはじめた。
「偽りの幸福だと、ようやくわかったわ。偽善も偽善、すべて偽善。あたしは生っ粋の淋しがり屋で、あたしのことを見てくれる人だったら誰でも愛せたんだわ。別にあの男が彼でなくてもよかった。今思えばブランド物の服にアップリケを縫いつけているようなものだったのよ」
「踏ん切りはついたの?」
 わたしは聞いた。
「というか、ああ、こんなやつだったんだって興醒めしちゃった。だってね、麻薬常習者だったんだよ、彼」
「え?」
「麻薬の売買にも関わっていたから懲役四年くらってやんの」
「マジ?」
「マジっす、大マジっす。だいたい怪しいと思ってたんだよね、最近。やけに多額の金を納めないといけない宗教団体に入信したり、僻地に行って水を大量のペットボトルに汲んで帰ってきたり、変なものばっかり恐喝まがいのやり方で売ったりしていたもん。まあ、止めなかったあたしもあたしだけどね」
 わたしは、千明を目いっぱい抱きしめて、髪の毛をくしゃくしゃにしてやりたかった。そしてその男を強くひどく憎んだ。汚い言葉をたくさん並べて罵ってやりたかった。でも、わたしはどちらもやらなかった。わたしは表面上、黙って聞いているだけだった。
 もしここでその男を罵れば千明にひっぱたかれるのは確実だった。心から嫌われて一生会えなくなるだろう。だからわたしは、千明の彼を憎みつつ愛すことにした。それは一般的な愛し方ではなく、もちろん皮肉まじりの愛し方である。千明は脆い。だから一緒に愛してあげるのだ、そのできそこないを。
 わたしたちはとても長い間、話題をころころ変えては盛り上がった。会話の質の高低は関係なく、となりの席のおじさんに舌打ちされようがウエイトレスに呆れられようが構わず馬鹿な話をつづけては大声で笑い合った。わたしたちは無我夢中で会話に勤しんだ。千明の笑顔を見ていたくて、下品なことも低劣なことも厭わなかった。
 構内放送がこれからの便の予定を羅列する。その羅列の中に千明の行き先もふくまれている。
 わたしたちは喫茶室を出た。そのとき、二人がかりで構築した会話のブロックが、音を立てて崩れ落ちた――ような気がした。胸がきゅうっと締めつけられた。わたしにはもう、床に散らばったブロックを拾う余裕さえ残っていなかった。
「あ、そうだ。ちょっとここで待ってて」
 千明は何かを思い出したようにロビーのカウンターへ走っていった。
 えっと、保険に入りたいんですけど。え? ああ、はい。じゃあ、そのコースで。はい、お願いします。そう言って、差し出された書類に何やら記入している。
「えへへ、保険に入っちゃった」
 戻ってきた千明は、満面の笑みをわたしにくれた。
「吟子と話してたら命が惜しくなっちゃったのよねー。なんでかわかんないけど。ふしぎなことに」
「帰ってきたら一番に知らせろよ」
「もちろん! ていうか、吟子以外に友だちいないし」
「よろしい。では、行ってこい」
 わたしは千明の肩をばんとたたいた。
「じつはねー」
 出国ゲートに行く途中、千明は陽気な口調で言った。
「あたしのおなかのなかには暴力男の生命が宿ってるんだあ」
 思わず立ち止まる。
「あっちで産んでやるわさ」
 千明は高々とピースサインを掲げ、
「心配しないでいいからねー。でも、心配したけりゃしていいよー」
 と歌うように言いながら、人波の向こうに消えていった。
 再会を喜ぶ家族に目の前をふさがれても、わたしはしばらく呆然とたたずんでいた。

 その夜――。わたしは煙草を吸っているときに、ほんの出来心で左手の甲に、その火を押しつけてみた。熱いというよりは電流に近い痛みを感じた。
 この行為は、千明の傷とは一切関係ない。これはただの好奇心だ。わたしは自分のこの、血管が浮き出た手の甲が嫌いだから、蠢く血管を見ていると単純に腹が立つから――だから煙草の火でそれをつぶしてしまおうと思っただけ。でも、火傷した手の甲の血管は予想以上に活発に動きはじめ、わたしは顔をしかめて目をそらした。根性焼き、というそうだが、そんなに大した行為ではないなと思った。
 流しに行って水道水を当てると、また違う電流が走った。左手全体が痺れたように呻いた。
 サッシ戸を開け放ち、ベランダに出る。裸足の足の裏がひんやりする。左手をぶらぶらさせて冷たい夜気にさらすと、もうすでに痛みなのか痺れなのかよくわからなくなっていた。手を握ったり開いたりしてみると、正常どおり機能した。これならケータイのメールも平気で打てそうだった。
 でも、と、わたしは思う。でも、千明はこれの何百倍もの痛みを受けとめていたのだ。わたしならとっくに発狂してしまっていただろう。誰かに助けを求めて泣き叫びながら逃げ出していただろう。時と場合によっては相手の男を殺すかもしれない。
 とてもじゃないが愛情で補うことはできそうになかった。
 ちあき……。わたしはつぶやき、負傷の左手を夜空に突き出す。
 風がそっと吹き抜ける。それだけでも充分に寒さを感じる。どことなく干からびた雑草のにおいがする。夜は、すてきに腐っている。
「フレー、フレー、ちっ、あっ、きっ!」
 わたしは小声で叫ぶ。透明な闇に向かって。
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