FC2ブログ

記事一覧

響けよ、愛しのブンガク(七)


       七

 上空には台所のような湿っぽさ。今にも雨が降り出しそうな気配。朝からずっとそんな秋の憂鬱が漂っている。
 ブンガクと肩を並べてベンチに座って読書していると、わたしたちの前におじいさんがやってきた。
 ずいぶんと小さな人だ。猫背を勘定に入れても一五〇センチにも満たないだろう。後ろになでつけられた髪は全部白髪に風化し頬の肉が重力に負けている。何世代も使い古されているようなチョッキ、洗いざらいの薄っぺらなズボン。
「何を読んでらっしゃるんですかな」
 しわがれ声で聞かれた。わたしはM・デュラスの『モデラート・カンタービレ』を掲げる。ブンガクは別次元に飛んでいるせいか、うんともすんとも言わない。手には『文芸読本 太宰治』という背表紙の本が握られている。
「少しわしに時間を下さらんかな」
 おじいさんはブンガクの顔を覗き込みながら言ったが、
「はい、なんでしょう」
 答えたのはわたしだった。ブンガクは当分こちらに帰ってこないだろうから。
 それはおじいさんにもわかったのか、ブンガクに向けられていたまなざしが、ゆっくりとわたしに移る。
「実は、貸しておいてこんなことを言うのもなんですが……」
 歯切れが悪い。そういうときは往々にしてよい話ではない。
「この公園から立ち退いてほしいんですわ」
 ああ、とわたしは思った。実際、ああと口から漏れていた。
「いやあ、田中さんにここを使ってもいいと言ったのは、まぎれもない、わしなんですがね。でもホームレス、や、失礼……ここの住民じゃない方がこの公園を使っている、しかも住みついているというのは、なかなか町内のみなさんのご理解をいただくのに難がありましてですな」
「田中、さん?」
 わたしがつぶやくと、おじいさんは、あれ? という表情をした。ブンガクとわたしを交互に見る。
 そこでわたしは、ああそういえばと思い出した。そういえばブンガクの名字は田中だったと。すっかり失念していた。わたしは咳払いを一つ、
「やっぱりここを出ていかないといけないですか?」
「そうですなあ」
 おじいさんは腕を組む。本気で悩んでいるらしい。
「今すぐ、と急かしはしませんけどなあ……近々町内会があってですな」
 言いながら廃棄バスを見る。つられてわたしもそこに視線を向ける。
「半年に一回、町内会はあるんです。そのとき、あのバスの中で行うんです。まあ、この地区ではあそこが公民館代わりみたいなものでしてね、来月、集うことになってるんです。ですからちょっと考えてはくれませんでしょうか」
 わたしに頼まれても困るのだが、確かにそれは一理ある。公共の場にホームレスがいたらそこに行きづらくなるし、うかうかと子どもを遊びにも出せない。
「わかりました」
 わたしはきっぱり言った。
「ブンガク――いや、彼をこの公園から連れ出すことを約束します」
「ああ、そうですかな」
 おじいさんはなぜかヘコヘコとこうべを垂れた。
 そのときブンガクが緩慢な動作で首をもたげた。
「……梯子は」
 と言う。声はまだこちらに帰還していないようだ。
「梯子はありませんか」
「はて? 脚立のことですかな?」
「はい、それでいいです」
 じゃあうちにあるのを取ってきましょう。どこまでもお人好しのおじいさんはいそいそと公園を去っていった。
 その後ろ姿を目で追っていくと、すぐそばの立派な家に入っていった。あのおうちは、わたしが当初、ブンガクの生態観察のために利用していたところだったということに気づいた。あとでそれとなくお礼を言おうとわたしは思った。
「あれは町長だ」
 ブンガクは言った。
「えっ、そうだったの?」
「失礼はなかったろうな」
 失礼も何も、あんたがいちばん失礼じゃん、と内心でツッコミを入れてから、
「ねえ、ここ出ていかなきゃならなくなっちゃったよ。どうする?」
「問題ない」
 本当に問題のなさそうな答え方だった。
「暮らす場所は決めてある」
「え! どこどこ?」
 いいところだ。ブンガクはにやりと、それだけ言って本に視線を戻す。
 わたしは唇をとがらせる。なあんだ、つまんないの。
 公園から追い出された暁にはブンガクを家に連れて帰るつもりだったのに……。
 今までならアパートにブンガクを来させようなどこれっぽっちも考えなかっただろう。単純に、汚らしいと思っていただろう。ブンガクがわたしの部屋に上がるなんてもっとも汚らしい、と。それだけわたしは正常な思考ができていたのだ。そう、小学生のころ、屋上という空間以外では決して深く交わらなかったように。それはただたんに教室の中でのブンガクがしごくまともな教師だったことと、わたしが生徒の殻をしっかりと被ったまま逸脱しなかったことに起因している。
 教師のブンガクも、生徒のわたしも、実に卑怯で自分勝手で汚らしい生き物だった、ということ。
 今だってそうだ。ここにいるとき以外のわたしを、あんまり見せたくなかった。思いきり変な顔で鼻毛を抜いたりだらだらとお尻をかいたりしているときのわたし、それなりに日常生活の問題を抱えているわたし――素の部分をブンガクに見せたくなかった。見せる必要もないと思ってもいた。
 おじいさんが、八の字型の脚立を引きずりながら戻ってきた。わたしはあわててそれを持ちに駆け寄ったが、ブンガクはのんびりと伸びをしている。わたしは本当にあいつを好きなのだろうか。この脚立ごと体当たりしてやりたかった。
 脚立をバスの横っ腹につけろ。ブンガクの命令に不承不承わたしは従う。何よ何よ、とつぶやいているところに町長が、お若いですなあと言う。何がですか。わたしは鋭く聞いた。いやあ、実に若い。町長はそれしか言わなかった。
 ブンガクは脚立を使ってバスの上によじ登った。
「何か気になるものでも見えるんですかな」
 町長が斜め上に向かって声を張る。
「いや、町には興味がないのです」
 ブンガクは両手をポケットに押し込み、空を見上げた。
「空に、近づきたかった、それだけのこと」
「ほう、なるほど。近づけた感想はいかがなものですかな? 今日はあいにくの雨模様ですが」
「空の色にも興味はないのです。近づきたいという気持ちを大切にしたい、それだけのこと」
「ほう、いやはや」
 ではわしはこれで。町長は頭をなでながら帰っていった。
 わたしはベンチに置いていたお弁当を引っ提げて、バスの屋根に上った。
 空に近づけたかどうかあまり実感はわかなかったが地面に立っているときよりも数倍、身軽になった気がする。
「梅干し入りと昆布入り、どっちがいい?」
「……梅」
 梅おにぎりのサランラップを外してブンガクに手渡す。もうすっかり秋一色に染まった風に肩がぶるぶる震えてしまう。別段ピクニック日和というわけでもないのにバス一台分の高さから食べるおにぎりは、とてもとてもおいしくて、舌に平和の味が広がった。毎日これくらいの位置で暮らせたら、今みたいな澄んだ気持ちでいられるだろうか。豪華なホテルでなくていい、ふんぞり返るほどのマンションじゃなくてもいい、ただバス一台分高い場所――ありそうななさそうな微妙な高さ。
 わたしたちはしばらく無言で食べつづけた。ブンガクが三個とも梅を選んだので、わたしは必然的に昆布ばかり食べた。
 やがてどこからか例の猫がやってきた。片方の目が鈍く光ったので、それとわかった。
 ブンガクはためらうことなくたくわんを放った。猫は一瞬びくっと警戒してから、おそるおそるたくわんに近寄り、鼻先で正体を探りつつぱくついた。猫もたくわんを食べるのかと、わたしはなかば感心した。
「名前は決めたの?」
「うーむ」
「決めてないんだ?」
「いや……猫、だ」
 うんうんとブンガクは頷く。
「そう、猫は、猫だ」
「だから?」
「だからあいつの名前は、猫だ」
「猫が名前なの」
「ああ」
「それだと見分けつかないよ」
「どうして?」
「だって猫って総称じゃん。ちゃんと固有名詞をつけてあげないと」
「ふん、それなら他の猫を猫と呼ばないようにしたらいい。さしずめ小動物Bとでも言っておこう」
「B? Aじゃないの?」
「Aは犬だ」
 ただ名前が思いつかなかっただけのくせになんという屁理屈――よくもまあそんなに理詰めづくしの考えで脳みそが爆発しないでいられるものだ。ある意味、賞賛に値するわ、まったく。わたしは呆れてものが言えなくなる。でも、ちょっぴり楽しい。場所が良いからだろうか。
 電線に小鳥が二羽止まっている。左側の鳥は辺りをきょろきょろと見回して、もう片方はくちばしでしきりに横の鳥のおしりをつついている。ねえ、わたしの話をもっと聞いてよお。いいや、ぼくは忙しいのだ。わたしはくつくつ笑いながら鳥たちの会話を自分たちの会話と重ね合わせる。いったい、あんたは何に忙しいのさ? ぼくは常に、在り方について思考を巡らせているのだよ。何よそれ。今日は正しい電信柱の在り方について考えている。ばっかみたい。
「……ばっかみたい」
 わたしの小言に、ブンガクが薄く反応する。わたしは、なんでもない、というふうに首を横に振り煙草を一本くわえた。細い煙を意識して吐き出していると横から、くれ、と言われた。わたしたちはしばし煙草の紫色の煙を吸っては吐いた。
「きみは右利きなのか」
 ふいにブンガクは言った。
 わたしは違うとかぶりを振る。わたしは左利きである。煙草を持つのも左手。
 煙草を利き手で持つなんて合理的ではないとブンガクは言った。何かと不便じゃないかと。
 わたしは頷いた。煙草を利き手で持つなんて合理的ではない。明日から右手に持ち替えようと思い、ああそういえばブンガクと時間を過ごすのも合理的ではないなとも思った。
 二羽の小鳥はいつの間にかいなくなっていた。交尾場所を探しに裏路地に入ったのかもしれない。
 あ、だめ――今こそ、言わなきゃ。
「ねえブンガク」
 だからわたしは言った。
「たまにはデートしよう」
 と。

 あ、だめだ、と思うわたしを、いつもの位置で冷静に監視しているわたしがいたのなら、絶対に許さなかっただろう。ブンガクみたいなやつに「だめだ」と思うほどだめになるわたしなど、あってはいけないのだ。
 だけど、だめだ、と思った瞬間、わたしは感情ごと外に弾き出されていた。そして言い終わり、ブンガクの横顔を見上げたときにはもう反省の余地などどこにもありはしなかった。むしろ薄荷キャンディーを頬張ったときのような清々しさだった。
 これまでのわたしは木っ端微塵に砕け、新しいわたしが生まれたのだった。

 バイト先でその話を聞かせると、千明は、ついにやったねと自分のことのように喜んだ。
 わたしは焼き芋の蒸し器を見ながら、でも、とつぶやいた。でも、ブンガクとのデートなんて想像がつかない。
 電子レンジ並に間抜けな音が鳴り、わたしは手袋をはめて蒸し器の中の焼き芋を取り出す。三日前に手首を火傷したばかりだから動作が慎重になる。熱気が顔にかかって、ゴホゴホむせながら店頭に焼き芋を並べた。千明はレジカウンターでその焼き芋の魅力を下げビラに書きつづっている。
 最近、この店に焼き芋蒸し器が導入された。開店当初はパンオンリーの純真無垢ベーカリーだったにもかかわらず、高級ケーキや進物用のお菓子に手を出し、とうとう焼き芋が目玉商品になるまでに行きついてしまった。これではなんのお店なのかわからないわとわたしが言うと、千明は、つぶれたらつぶれたときのことよと呑気に構えていた。
 客足の遠退いた昼下がり、わたしたちは殺風景な控え室で遅めの昼食をとっている。本当はどちらかがレジに立っていなければならない規則だが、残念なことにそれを咎める者はどこにもいない。
「もしここがつぶれちゃったらどうするの?」
 わたしは聞いた。
「あたし、マチュピチュに行こうと思ってるの」
「マチュ……」
「ペルー南部にあるインカ帝国の都市遺跡よ」
「ペルー……また急な話! どうしてそんなところに行きたいの?」
「どうせ旅行するなら世界遺産を見てみたいじゃない。頭のいい考古学のお偉いさんやその道を何十年、何世代にわたって研究している人たちが集まっても、まだまだたくさん解明されていないことがあるでしょ、そこには何々という説があります、また何々という説も囁かれています……研究者たちはそればっかり! だからあたしは自分の目で人類の謎を見てやるのよ」
「でもどうして、そのマチュ……」
「マチュピチュ!」
 千明の声が一オクターブ上がる。そこには切実さが込められている。
「どうしてそのマチュピチュってところを選んだわけ? 日本にだっていろいろとあるじゃない、世界遺産は。えっと……わたし詳しくないから言えないけど」
「単純に響きがいいだけなの」
「響き?」
「そう、あたしはなんでも響きで判断するの。たとえば吟子が『ぎ・ん・こ』じゃなかったら、こんなに仲良く接近していなかったわ。それは吟子だって同じで、あたしが『ち・あ・き』じゃなかったら、ここまで良好な関係にはならなかったと思う。人にはそれぞれ無意識のうちに求めている響き、もしくは受け止めやすい響きってものが生まれつき決められていて、それを感性とか直感とか呼ぶのよ。文字を見るのだってそう。文字も、れっきとした響きの一つよ。自分に合った食べ物も調度品も嗜好品も、恋人もテレビ番組も、その日の感情や予定さえつまるところ『ひびき』の対象なのよ」
「なーるほど」
「あたしはマチュピチュっていう響きに憧れ、マチュピチュっていう響きに丸ごと吸い込まれちゃったのよ。ああ、そういえば……うろ覚えだけど、なぜこのような急峻な山の上に楼閣を造ったのか? っていう質問に対して、大学の教授だかなんだか知らないけど、その人がこういうふうに答えたのよ。インカの王がこの場所を選んだのは、圧倒する景色としか答えようがありません、って。圧倒する景色――その答え方もいい響きだわ。あたし、その景色をじかに見てこないと気がすまなくなっちゃってるのよ、とにかくもう行くしかないのよ。だから、いってきます!」
「は、はい。……いってらっしゃい」
 そう言うしかほかになかった。
 千明が握手を求めてきたので、わたしはその手を握り返した。
 火照った手、健気な蒼白な手、揺るぎない女の、手。
 こちらが力を強めると、呼応するように千明もそうした。逆に力をゆるめると千明は懇願するようにさらに力強く握り返してくる。しばしばわたしたちの応酬はつづいた。千明の手の中の震えは怯えなのか興奮なのかもっと途方もないものなのかわからなかったけれど、わたしは胸のうちで何度も何度も、親友を勇気づけた。がんばれとか負けるなとかそんな空々しい言葉の詰め合わせよりも、否定しようのない確かな「響き」を千明に与えつづけた。千明はきっとうまく感じ取ってくれたはずだ。

 翌々日、千明はバイトを辞めていた。
 昨日、千明と一緒の勤務時間だった子――高校三年生で彼氏とのデート代のためにバイトをやっているというとても愛らしい子――から事情を聞くと、お客さんのいなくなる閉店間際に、千明がいきなり甲高い叫び声を上げたらしい。甲高くて、ヒステリックで、逼迫した叫び声を。そして頭を抱えたまま床にうずくまり体を激しく左右に揺らしはじめた。叫び声の中に、痛いよ、やめてよ、という言葉が混じっていた。隣の総菜屋の店長や薬局のおじさんやスーパーの裏方の人たちが駆けつけてくるまで、「わたし、怖くて怖くてびくびくしていましたよお」とその子は瞳を潤ませながら話してくれた。
「でも」
 その子は声をひそめて言った。
「千明さん、みんなの肩を借りて休憩室に運ばれていくときはかなりぐったりしていたんですけど、しばらくしてここに戻ってきたときにはもう、けろりとしていたんですよ。それでわたしに、大丈夫だからね、心配させちゃってごめんねって笑って帰っていったんです。なんか、すごい変わりようでした。叫ぶ前とはまるで別人みたいで、どういうわけか顔色も良さそうで――健康そのものでしたよ」
 それを聞いて、わたしはほっと胸を撫で下ろした。千明は狂ったんじゃない、とわかったからだ。
 千明は以前、しょっちゅう泣いていると言っていた。彼女は今、マチュピチュという素晴らしい目的を見出して、だからつらい現実にさよならをするために思いきり泣き叫んだのではないだろうか。自分を縛っているもの、自分が縛っているもの、それぞれの束縛に終止符を打ったのだ、ついに。それはまさしく解放の叫び声なのではないか、とわたしは思いながら昨日の顛末を聞いていた。
 その日の帰り道、無性にブンガクに会いたくなって、急遽、電車を乗り換えて公園へ行った。
 バスのかたわらにしゃがんでいるブンガクは淡い水銀灯の明かりに照らされていた。もうすぐ死ぬのかしらん、と思うほど一瞬、その光景は神々しく映った。
 シューシュッシュッ、という小気味いい音が、夜の公園に響いている。何してるんだろうと足音を忍ばせながら近づいていくと、ブンガクはばかみたいに真面目くさった表情で、バスの後部に落書きをしているのだった。
「もしかして、立ち退き前の腹いせ?」
 わたしはからからと笑った。
 ちゃんと町長の許可を取ってあるとブンガクは言い、わたしに緑色と白のスプレーを寄こした。おまえも描けということだろうか。いけないことのようだが、それはそれで嬉しい指示だ。
 わたしは緑色と白のそれを見比べながら、しばらく絵の構想を練った。たったの二色で描けるもの……すぐには何も思いつかない。
 その間もブンガクはどんどん白のスプレーを噴きかけていく。若者が街角でやっているような傲慢さはなく、身のこなしの一つ一つがとても丁寧で粛然としている。額に浮き出た大粒の汗はこめかみをつたって頬へいくものもあれば、そのまま地面に落下するものもあって、見ているだけで意外と飽きない。わたしは描くのを諦めて、ブンガクの、うっすらと膜の張った瞳、そこに反射する光、余分な肉が削げ落ちた頬、はだけたカッターシャツの衿もとからのぞく鎖骨に見入ってしまった。
「この公園を離れるのが名残惜しいんでしょ?」
 わたしは意地悪を口にしてみた。
「これはぼくの、一つの創作なのだ」
 珍しく打てば響く早さでブンガクは答える。
「ところで」
 はたと手を止め、わたしの顎の辺りを見ながら、
「気が散るからどこかに行ってくれないか。なんなら酒とつまみでも買ってきてほしい」
 どこか鬼気迫るものがあり、わたしは静々と近くのコンビニへ向かった。
 立ち読みでたっぷり時間をつぶしてから公園に戻ってくると、ブンガクは足を組んで座っていた
 地球――バスの後部全体に地球が描かれていた。白色と緑色のスプレーを絶妙に噴きかけて地球という生命体を描き上げていた。海のにおい、自然のにおい、嗅いだこともないのに雲の、大気の、果てしなく清潔なにおいまで頭の中にありありと浮かび上がった。
「まだほんの一部だ」
 先ほどとは打って変わってブンガクの声は規則正しい響きをはらんでいる。
「ここを去るまでにはこのバスを地球一色に変える――地球バスに、だ」
「ビール買ってきてあげたんだから、できあがったら一番に見せてよね」
「いや……いちばん最初の観客は、猫と決めている」
「どうして?」
「あの猫はここの守り神だからな」
「勝手に決めつけちゃ猫がかわいそうだよ」
「守り神とは往々にしてそんなふうに勝手に決められるものだ」
「……じゃあわたしは二番目でいいよ」
「二番目はもちろん町長だ。塗装を許可してくれたからな」
「じゃあ三番目!」
 わたしはブンガクに缶ビールを放り投げた。
「よろしい」
 ブンガクは片手でキャッチし、ひさしぶりに幼稚な笑顔を覗かせた。
 月が、まるい。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

非公開コメント