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響けよ、愛しのブンガク(六)


       六

「吟子はさあ、発狂しかけたことってある?」
 千明は両手に包んだマグカップの中を見ながら言った。
「発狂かあ」
 口にしてみたものの、そんな経験など一度もないことはわかりきっていた。
「あたしは何回もあるよ」
「そうなんだ」
「一回目は、立入禁止の樹海に入って、そこで大量のカラスの死骸を見たとき」
 わたしは絶句する。樹海という聞き慣れない響きに頭全体が痺れを起こす。
 千明はつづける。
「二回目ははじめて彼氏の前でメイクを落としたときに『おまえってこんな顔だったの?』って言われてしまったとき。しかもそのあと、『よくもおれをだましたな』ってキレられて」
「……もしかして今もその彼氏と付き合ってる?」
 ううんと千明はかぶりを振った。
「今は別の人。でもね、なぜかあたしは同じタイプの男を選んじゃうんだよね。選ばれちゃうんだよね」
 だからしょうがないんだよね、と弱々しく笑い、えへへ、と自嘲ぎみの声を漏らす。
「……千明」
「ねえ」
 唐突に千明が身を乗り出してきた。
「あたしの部屋、どう?」
 意味がわからず、わたしは首を傾ける。
「もしこの部屋が気に入ったならいつでもここへ来ていいよ。出入り自由。合鍵だって渡しちゃう」
 反射的にわたしは辺りを見回した。食器棚の中のミッキーマウス。ボン・ジョヴィのアルバム版ポスター。いくつもの包丁が収まった包丁差し。
「ビール飲む?」
 いい、とわたしは答える。
「煙草吸う?」
 吸う、と答える。千明はにっこりと微笑み、空き缶を持ってきてくれた。飲み口の縁にはすでに灰がびっしりとこびりついている。千明は煙草を吸わない。
「泣くのがいいんだよねえ」
 白熱灯の下で頬杖をついた千明の顔は同性でもうっとりしてしまうほどだ。
「極度に泣くとさあ、興奮してエクスタシーに達することがあるの。吟子はそんな体験、ない?」
 わたしは煙草をくゆらせながら首を横に振る。
「ないのかあ」
 感心、といった口調で言われた。
「やっぱりあたしだけなのかなあ、しょちゅう泣くホモサピエンスは」
「何よ、それ」
 変な言い回しに、わたしは吹き出してしまった。
「欲求不満な人はよく泣くらしいよ。体が、精神が、快感を偽造してでも得ようと働くの。あたしそんなに『したい』っていうたちじゃないけど、本当はそうなのかも。確かに号泣の沸点はすごく気持ちいいし」
「ふうん」
「でも、欲求不満は女の子の場合、生理にもつながるからそんなに特別じゃないかも」
「なるほど」
 わたしが帰ろうとすると千明が名残惜しげに袖をつかんできた。バス停まで見送ってあげる、そう言うので、わたしたちは一緒に坂道を下りながら話のつづきに勤しんだ。
「あたしね、中学生のときのあだ名がカブロだったの」
「カブロ?」
「うん、平清盛の時代に庶民が平氏の悪口を言っていないか調べるために十四、五歳の子どもを何百人も町を歩かせて密告させた――その子どもたちはオカッパ頭だったの。つまりオカッパ頭のことをカブロっていって、あたし、ちょうどオカッパだったんだよね、その時期」
「へー、おもしろいね」
「吟子はあだ名、あった?」
「わたしは小学校のとき、パチプロ、だった」
「早くもパチンコ狂だったとか?」
「まさか。休みの日になるとお父さんが無理やりわたしをパチンコ屋に連れていくっていうだけ。なぜかっていうと、お母さんに、少しは子どもと遊んで上げなさいって感じでよく叱られてたから――だからわたしを連れて公園に散歩しに行くふりをしてパチンコ屋にしけ込んでたの。わたしが一人で家に帰るとお母さんに怒られる、わたしもお父さんが叱られるのを見過ごせないし、仕方なくパチンコ屋の中のちょっとした休憩場所でいつも座って待ってた。調子がいい日はお昼が過ぎても待ってなくちゃいけなくてすっごく退屈だった。というわけで頻繁にお父さんと一緒にパチンコ屋に行くものだから出入りするところをクラスメイトに見られちゃって、学校ではパチプロ!」
「あはは、おっかしー」
「カブロだって充分おかしいよ」
 そう言い合ってわたしたちは大げさなまでに笑った。
 空の闇に月が白い穴を空けている。夜の住宅地はひっそりと息を殺しているようでどこもかしこも無機質な気配に満たされている。電灯がともっていようが、窓のカーテンに人影が過ぎろうが、そんなものはすべて一円の価値もなさない。わたしの人生には無縁なのだ。しょせん、みんな装飾なのだ。
「そういえばあたし、小さいころはずっと男の子に憧れてた」
 千明は本当に懐かしそうに言う。
「男の子って下校のときとかさ、肩を組んで友情を確認し合ってなかった?」
「最近の小学生はしないかもしれないけどね」
「そうなの? あたし、あの光景を見るたびに男子っていいなあって思ってた。女の子同士が触れ合うことって滅多とないし、なんか嘘っぽいじゃん。でも男の子だと違うんだよね。友情って感じがしてさ。女にはそんな言葉、成立しないもん」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「じゃあ試してみる?」
 わたしは思いつきのまま言った。
「え? 肩を組むの?」
 千明は、暗渠から引っ張り出された小動物のような顔をした。
「うん、もしかしたら友情を確かめ合えるかもしれないし」
 わたしは彼女の肩に手を回した。
 思った以上に薄い肩だった。輪郭が今にも音を上げて、とろけてしまいそうだ。いとおしい。わたしの腕が切なくなる。ぐっと引き寄せると千明は抵抗なくわたしに半分、体重を預けてきた。二の腕にくせ毛風のパーマがわさっとかかり、わたしの胸ははちきれんばかりにどきどきする。
 しばらくそのまま歩いた。酔っ払いが見ていたが、知ったことではない。煌々と光るバス停が見えてきて、恥ずかしいね、と言って先に体を離したのは千明の方だった。わたしも、そうだね、と同調したが、恥ずかしさなんてこれっぽっちもなかった。むしろ体中が彼女の重みや体温を求めてやまなかった。妙な方向に深入りするつもりはないから、何も言わなかったけれど。
 バスに乗り込んだわたしはステップの上から千明を見つめた。分厚い扉の溝がくっきりとわたしたちの境界を示しているようで、それが死ぬほど悲しかった。車外と車内、それ以上の隔たりを感じるのだ。
 車内灯の白々しい光がわたしを千明のもとから引き離そうとしている。
 やっぱり降りよう、次のバスにしようと決めたとき、ちょうど千明がぽつりと言った。
「あたし、一人ぼっちは嫌なの」
 ゆるやかな雨垂れみたいな口振りだった。
 わたしは右足を三分の二、ステップからはみ出したまま動けなかった。
 空気の圧縮される音を引き連れて扉が閉まる。バスが重たそうに流れ出す。
 わたしは両足をもつれさせながら座席についた。千明の顔を思い出そうとしたけれど、あんなに見つめていたくせにどういうわけか頭に浮かんでこなかった。千明の声も雰囲気も匂いも、なぜか薄ぼんやりと霧の中に隠れてしまった。思い出そうとすればするほど千明はすうっと遠ざかってゆく。距離感が曖昧になる。
 千明は、一人なんだ。そして、わたしも。これまでも、これからも、今夜も明日も明後日も、誰もが孤独を抱えて生きていくんだ、きっと。
「服、返しそびれちゃった」
 わたしは窓の中のメイド服を見ながらつぶやいた。バスが、右に傾く。

 それから数日後、無職の男が妻に暴行を加え死亡させたというニュースを見た。
 この男は妻にどのような暴行を加えたのだろうか。殴る蹴るだけではないような気がする。腕に煙草を押しつけたり切り傷を負わせたり、そんなことも平気でやったのだろうか。それ以上に、死亡させるくらいだから残酷なことをいろいろとやったのだろう。
 よくあるニュースだ。よくあるものだから今まではすっかり聞き流していた。千明の腕を知らないままのわたしだったらこのニュースもぼんやりと聞いていたと思う。わたしたちはたくさんの出来事を看過している。考えてみるとそれはとても危険なことだ。
 テレビ画面にはその暴力夫の顔と名前と年齢が映し出されている。冴えない、職場ではさんざんコケにされていそうな男。
「ばかだなあ、おじさん」
 わたしは冷やかに話しかける。
「男はどうあがいたって女には勝てないんだよ」
 そのおじさんは奥さんを心底うらやましがっていたんだと思う。自分にはないものを両手いっぱいに持っていた奥さんが、うらやましくてうらやましくて憎たらしかったんだ。だからその嫉妬心が暴力的な性欲のかたまりになって暴走してしまったんだ。男は、ばかだ。思い通りにいかないとすぐ性欲に走る。
 女は愛に生きれるほどの感受性を持っているし、愛を貫くたくましさも、人の気持ちを忖度する賢さも、優しさもしたたかさも、ある。新たな命を宿すことももちろんできる。それらを踏みにじるのはいつだって男だ。
 笑っちゃうくらいオソマツな棒を挿入して勝手に支配している気になってんじゃねーよ男ども。おまえらみたいな性欲に操られた猿よりも、セックスに無頓着なホームレスのブンガクのほうが全然ましだ。おまえらは猿以下だ、物乞い以下だ。
 気づけばわたしの鼻息は荒々しかった。
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