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響けよ、愛しのブンガク(三)


       三

 千明が執拗にブンガクの話をねだるものだから、わたしはしょうがなく朝一番に青い廃棄バスの眠る例の公園へと出動した。
 ブンガクは切り株式ベンチで本を読んでいた。
 さわさわと揺れる銀杏の木の葉。湿り気を帯びた地面の秩序。水場の蛇腹のホース。
 はじめて見かけたあの日と寸分もたがわぬ光景だった。わたしはしずしずと近づいていき、少し距離を置いてベンチに腰かけた。躊躇してはだめだと、しきりに心臓に言い聞かせながら先日買った川上弘美の本をバッグから取り出した。読み返すのはこれで三回めだ。ちらちらとブンガクの方を見たが相変わらずわたしの存在など意に介さない――どころか、気づいてもいないようだった。だからわたしは心置きなく彼を舐めるように見てやることにした。躊躇したら、だめ。
 それにしてもと思う。それにしても、張り合いがない。不戦勝、そんな感じがする。
 彼の横にずんずんやってこれたのもわたしのことなどなんとも思わないだろうということが目に見えてわかっていたからだ。事実、ブンガクに反応はなかった。今のところわたしは羽虫にも満たない存在だ。
 いい加減、むかついてきた。
 弁当を返せ、と内心つぶやいた。わたしのあのころのがんばりを返せ、と。
 そのとき三人の子どもたちがどこからともなく現われわーと遊動円木に走っていき、先着の二人が丸太の両端に飛び乗ったため遅れた子が乗れずにその場に立ちつくした。その乗り遅れた子を微笑ましく見つめていると少し、勇気がわいてきた。どうしてか知らないが可哀相な子を見ると勇気がわいてくる。わたしだけだろうか。
「何を読んでるんですか」
 わたしは注意深く、しかしなるべく明るめの調子で聞いた。
 しばしの間ののちブンガクは両目をしゅばしゅばさせながら、
「……ダザイ、ニンゲンシッカク」
 とだけ答えた。とても簡潔的でわかりやすい。どうやら過去の生徒のことなど微塵も覚えていないようだ。
「となりに座ってもいいですか」
 躊躇はだめ。だからそう言ってやった。ブンガクは黙ったままじっと見ているだけだったが、わたしは勝手にとなりに座ってやった。
 ブンガクの小説を盗み見ると、視力の悪いわたしの目には、それは手垢まみれで文章が一文字も判別できなかった。
「おもしろいですか?」
 聞くと、
「……興味深い」
 抑揚のない声が返ってきた。
 小一時間ほど並んで読書にふけったあと、
「また来ていいですか」
 と尋ねる自分の気持ちに驚きつつ、ブンガクの顔を覗き込むと、
「何か食べるものない?」
 じゃあ今度何か持ってきます、わたしパン屋で働いているので。うん、あまり凝ったパンじゃなくていいから。はい、わかりました。そんなやりとりを終えるとわたしは出勤のために公園を去った。
 バイト先で反芻するまで、あんまり接触の実感を捉えることができなかった。時間なんて意識の違いであっという間だ。

 次の日。
 バイトが休みのわたしは、昨日の売れ残りを入れた紙袋を携えてブンガクの所定のベンチに行った。たった一日でこわばった気持ちがほぐれていることに、ベンチに座った瞬間ふと気づいた。
 ブンガクはゆったりと本を閉じ、早速パンを咀嚼しはじめた。
「おいしいですか?」
「うまい」
「うちの店ではこのレーズンのパンがお勧めです」
「うん」
「あと、わたしのお勧めは、このバター味の渦巻きパンです」
「うん」
「……どうですか」
「うん、バターというより、これは鍾乳洞に近いな」
「は?」
「この渦巻きパンは鍾乳洞味だな」
「はあ」
「おいしいよ、鍾乳洞味は」
 はあ。わたしはそれしか答えられない。いったいバターがどう間違えば鍾乳洞になるのだろうか。
 わたしは煙草をせかせかと口に運び紫煙を吐き出した。
「きょうはいい天気ですね」
 話の接ぎ穂は天気へと向かう。知らない相手と話すときにしばしば用いられる常套手段。
「うん、とてもよい空だ」
 はじめてブンガクはまともに同調し、しかし次の言葉は決まって難解だ。
「純粋に青い空には身の毛がよだつよな」
「え?」
「街や人や野良犬や風やその他諸々の情緒を克明に映し出しているような……だから空には畏怖と畏敬の〝しじま〟がたゆたっているのだろうな。うん、そうだ、ぼくは世界の縮図を見つめるために空の色をこうやって毎日丹念に確認しているのに違いない。刷毛でひと掃きしたようなただの雲の棚引きにさえ尋常では知りえぬ情報を嗅ぎ取ろうと躍起になっているのだ」
「……とても文学的ですね」
 そこでブンガクはかすかに口角を持ち上げ、そう見えるか? と言った。
 はい、そう見えます。わたしはこくりと神妙に頷く。人差し指に熱を感じる。煙草の火がフィルターに達していた。灰がジーンズの膝を汚していた。
 パンを食べ終えたブンガクはありがとうと言って紙袋をわたしに返した。どういたしまして。次はごはん気のあるものが食べたいなあ。え? パンは飽きたから。おいしくなかったですか。いや、おいしかったよ。でも、飽きたんですか。ああ、飽きた、というよりも白飯が恋しくなった。じゃあ今度はお弁当を持ってきますね。ありがとう。
 今日は夕暮れまでブンガクのそばで粘る予定だったけど、わたしは昼前には早々に帰宅した。本棚から料理本を抜き取ってお弁当に使えそうな手軽な料理を探す作業に神経をそそいだ。
 ブンガクは、相変わらず押しつけがましかった。でも、とても懐かしかった。小学生のころのわたしにもあんなふうにぞんざいな言い方をしていた。年齢問わず彼は自分の利益になりそうな人を見つけると本心を惜しみなく出しつくすのだ。理性のないように見えるが実はとんでもなく奸智をきかせている――というか嗅覚が冴え渡っているのだ。自分の望む相手を見つけ出す嗅覚。
 鶏肉の薬味焼きというのが目につき、わたしは近所のスーパーで鶏肉やら長ねぎやら蜂蜜やらセロリやらをいそいそと買い整え、料理本をひもときながら調理をはじめた。
いち、なべにAのざいりょうをいれ、ひにかけ、わいたらアクをとりよわびにし、コトコトとりにくをゆでる。そのとき、たけぐしをさしてみたりしてたしかめ、ゆですぎないこと。に、Bのざいりょうをなべにとうじ、とろみがつくまでにつめる。さん、とりにくをせんいにそってうすぎりにし、やくみをせんぎりにしたものをまき……。わたしはたどたどしく復唱しながら鶏肉の薬味巻きを完成させた。
 そうこうしているうちに台所の出窓の網目から狂ったようなオレンジ色が鋭角的に射し込みはじめた。安普請の六畳一間が鮮明に照らし出される。琺瑯鍋が鈍い怪しい光を放つ。あの読書魔はどうせ今ごろ太宰の世界に潜り込んで西日になど目もくれていないだろう。空に畏怖だの畏敬だのと言うそれはブンガクの十八番だった。彼の十八番は空想のものが多い。つまり彼の台詞は十中八九、出鱈目だ。
 でも、とわたしは鍋を洗いながら訂正する。でも、すてきな出鱈目だ、と。
 あーあ、やだな。むかつくなあ。
 ほんと気がふれてしまうくらいいらいらするな、だけど会いたいな、明日も行こうかな、朝は苦手だけど早くこれを食べさせてあげたいな――今夜は何かいいテレビあったっけ? そういえば明日の午前中は千明がいないから少し早めに行かないと、でもあの店の規則ゆるいから遅れても大丈夫か――あっ、そうそう、今夜はあの番組があるんだった、じゃあ夜更かししちゃうからブンガクのところには行けれないな、朝は苦手だもん、残念……川上弘美の本も読んだことだし次は誰の本を買おうか、こんなときは脳天直下型の恋愛ものは控えよう、全然違う本を読もう、今度はうんと娯楽娯楽したやつを読もう、ミステリーは気休めにいいかもしれないな、ブンガクはどうせそういうのは邪慳にするだろうけど。
 コンロわきのアルミホイルの汚れに、わたしは現実へと引き戻された。百均に行ったら油汚れ用のスプレーを探してみようと、意識して日常のことを思った。床のフローリングが裸足の足にひんやりと冷たい。それが「早く洗ってしまいなさいよ」と言っているかのように体の芯に響く。なので、中断していた鍋洗いを再開する。わたしはつくづく従順なたちである。
 あーあ、本当に明日はどうしよう。また少し、思考が逆流する。
 その夜、観たい番組を観ている最中に、あろうことかケータイが鳴り出した。放っておこうと思っていたものの十三回めのコール音に反射的に取ってしまった。
 相手は、わたしにブンガクの所在を教えてくれた友人だった。
「どう、ブンガクのところに行ってみた?」
「いや、まだだけど」
 わたしは平然とうそぶき、スナック菓子を食べる音を大げさに伝える。
 友人はかすかに落胆の気配を窺わせてから、
「また情報を仕入れたんだけど。吟子、聞きたい?」
 うん、と答える。じゅるじゅると音を立てて缶ビールを飲み干す。
 その情報によると、ブンガクは子どもたちからお金を恐喝し、そのお金で食料を買いもとめ、そして恐喝に失敗した日は川へ行って魚を手づかみで取り、挙げ句のはてに草をむしってガムのように味わう食生活を営んでいるらしい。どう? すごくない? と友人は瞳をらんらんと輝かせ――見えなくともだいたい声色でわかる――一人で思う存分しゃべくったあと、わたしの反応などおかまいなく通話を終わらせた。
 友人は最後に、まあ、実際わたしが目撃したわけじゃないけどねと言い添えた。今度も誰かの又聞きだろう。おもしろがって根も葉もないことを言いふらしているやつがいるのだきっと。この手の噂は今後もどんどんよからぬ方向に転がっていってしまう、そのことにわたしはひどい怒りを感じた。憤懣やるかたなし。テレビにクッションを投げつけた。わたしの好きなお笑い芸人がおもしろい動きをしつづけているが、実にばかばかしかった。
 夏掛けをおなかの上に当てて横になると、しかしなかなか眠気はやってこない。こういうときは決まって頭が活発に働いてしまう。そしてその活発さ故に、彼方に置かれていた記憶のタンスの引き出しが自動的にカタカタ開いていく。カタカタ、カタカタ――ものすごいペースで開かれていくにもかかわらずわたしはことごとくそれらを把握するのだから、まったく脳味噌の無駄加減には恐れ入る。
 やがて「カタカタ」が収まった。わたしはふと、ある記憶に惹かれたのだ。
 教室の教壇に立つブンガクがそこにはいた。なんの授業だったか、季節はいつごろか、わたしは五年生なのか六年生なのか、そこらへんは曖昧だ。ただ、ブンガクはいやに派手な幾何学模様のネクタイを垂らしていて、ネクタイピンなんかもつけていて、ズボンのポケットに突っ込まれた手首からちらりと金属製の腕時計が覗いているのがはっきりとわかった。そういえばそれを見たわたしは、ブンガクに貢ぐ「おんな」が現れたのだろうと嫉妬したのだ。
 どうして大人の「おんな」は手もとに残るもので男を縛りつけるのだろう。わたしは早くもそんな疑問にぶち当たった。今思えば相当ませていた。
 ブンガクは早々に教科書を閉じるとチョークの粉まみれの指を見、二度三度払った。払い終わったあと、「ときには……」という切り出し文句を走らせた。
「ときには――万引きも仕方ないのです」
 ざわっと、一瞬にして教室中がとまどった。
「大人になってどうしてもお金に困った場合、餓死してしまいそうになった場合、万引きをしてわざと捕まることをお勧めします。一度や二度では捕まっても大したお咎めはありません。が、しかし常習犯となると、当然刑務所行きになります。それまで粘って万引きをつづけましょう。もし万引きが成功したらありがたく頂戴しましょう。物品なら質屋に売りさばき借金の足しにしましょう。食べものなら食前に胸の前で十字を切っておいしくいただきましょう」
 ブンガクは生徒圏の動揺など歯牙にもかけない。
「なぜ万引きなのかというと、それが一番の軽犯罪だからです。一番人を傷つけなくてもよいからです。できれば、おじいさんおばあさんが営むこぢんまりとした問屋などではなく、大儲けをしているたかだか品物の一つや二つ盗まれたところで支障のないような大型店を狙ってください。そして刑務所に入ったら静かに過ごし、出所間近になったら看守と軽く揉めて出所を延期にしてもらってください。それを繰り返すだけで差し当たり安泰な生活が送れるでしょう。変な話ですが、犯罪者に襲われる心配もありません。身の安全も保障されているのです」
 チャイムが校舎全体に響き渡るとブンガクは普段通り一礼をして戸口の彼方へと去っていった。しっかりした足取りと、どこかやるせない雰囲気の後ろ姿だった。
 あのときに見た後ろ姿は、今なら「せちがらさ」という明確な言葉に置き換えられる。
 そして今ならちゃんと理解できる。
 あの教訓を、はたしてホームレスのブンガクは覚えているだろうか。
 先ほど友人から聞いた話は本当かもしれない。ブンガクは子どもからお金を巻き上げたり、そのお金で物を買ったりしているのかもしれない。
 わたしは扇風機のスイッチを手探りで探し当てて「中」に設定した。
 総体的に見ればブンガクは決していい教師ではなかったと思う。しかし核心に近い真実を語ったことはあっぱれだった。
 今のブンガクには「命のぬめり」というものがまったくない。年輪とともに否応なく身につけていくであろう狡猾な粘っこさや如才が感じられない。
 扇風機の風がありえないくらい計算された一定さでブーン、と鳴りつづける。

 翌日、小学校のころの同級生に手当たり次第電話をかけてブンガクのあの話を覚えているかと聞いて回ったが、誰一人として記憶にとどめているものはいなかった。
 やはりブンガクには、わたしが必要だということだろう。
 わたしは力強く頷き、便座の水洗レバーを引いた。
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