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響けよ、愛しのブンガク(二)


       二

 ブンガクとわたしの関係は、教師と生徒以上にシンプルなものだった。飼い主とそのペット、と言えばわかりやすいだろうか。なにせわたしたちの間にある紐帯は、エサ、だったのだから。
 今ほどではないが当時のブンガクもとにかく貧乏だった。女に金を貢いでいるだの、父親の莫大な借金を背負い込んでいるだの、麻薬常習犯で大麻のために金を捻出せざるをえないだの、始終根も葉もない噂がつきまとう自己管理不十分な教師だった。髪は散切りでフケが多く身嗜みに無頓着な上、自分を「小生は……」なんて気どった呼び方をするものだから年端もいかない生徒たちに「おーい、ブンガクのウンコー」と、毎日さんざんコケにされていた。
 しかし、わたしはそんなブンガクにとても興味を抱いていた。異性としてではなく、「ひと」として。文学少女が文学バカに惹かれるのは自明の理である。
 ブンガクを落とす――この場合の「落とす」は、「惹きつける」と同義である――のはテストで赤点を出さないのと同じレベルだった。
 貧窮にあえぐブンガクは昼休みになるといつも屋上の給水塔にもたれて太宰治やら宮沢賢治やら稲垣足穂やら、ときどき江國香織やら吉本ばななの本を貪っていたのだが、ある日わたしが手作りのお弁当を差し出すと小説などそっちのけでご飯を大慌てで食べはじめた。予想どおりだった。一言で言えば餌づけである。そしてその日からわたしは給食をそそくさと食べ終えるとブンガクのもとへすっ飛んでいく日々がはじまったのだった。
 ブンガクの文学理論はとても熱がこもっていた。太宰の自虐的ヒューマニズムにいったん異議を唱え、そこからまた著者の思い描いたであろう思想を主観たっぷりに再構築し、折に触れては稲垣足穂のロマンチシズムにうっとりと酔いしれ、年々移り変わってゆく恋愛観念の稀薄さ及びその稀薄から生まれる惰眠的美意識の持つ男女の存在価値を滔々と述べるさまは十歳そこいらのわたしにはさっぱりわからなかったが、とりあえず格好よく映った。将来このような男と結婚しようと幾度夢想したものだったか。
「先生は、作家さんを目指したりはしないの?」
 いつだったか、そう尋ねたことがある。
 ブンガクは「うぐ、うぐ」言いながらお弁当を嚥下しつづけている。案の定喉につまらせ急いで魔法瓶に口をつけてお茶を飲む。そしてまた咀嚼に戻る。なんて野性的な人なのだろうとなかばドキドキしているわたしだったが、同時に少しだけ残念な気持ちもあるにはあった。せっかく早起きしてお母さんに手伝ってもらいながら作ったお弁当を丸呑みされるなんてとても不本意だった。しかもわたしに好きな子ができたのだとお母さんに勘違いされていることも、いやだった。
 わたしがぼうっとしているうちにお弁当のケースを空にしたブンガクは、
「小生は、本を深く愛しているのであります」
 と、ようやく言葉を発した。
「愛しすぎているので書けないのであります」
「ねえブンガク、どうしてそんな変な言葉遣いなの?」
 普段の彼はそんな弱卒口調ではない。突然の変身ぶりにわたしはおたおたした。
「なので――このままでは終生物語を書くことはないのであります」
 かまわずブンガクはしゃべりつづける。
「吟子きみは、小生に小説を書かせたいでありますか?」
「う、うん。読んでみたいかも」
「そのためには、必須条件があるのです」
「何それ?」
「廃人になることでありますっ!」
 空に向かって吠えるブンガクの唾がきらりと光る。
「……はあ」
 わたしはどう反応してよいのかわからず首をもたげる。空は、ずっと果てまで青磁色の澄んだ響きをたたえている。
「小生には小説を読む他に取り柄も知識もない。これといって希少な経験もない。そんな男がいい小説を書けるはずがない。だとしたら廃人になるしか選択肢はないのであります」
「どういうこと?」
 わたしが首をひねると、ブンガクは得意そうに口の端に笑い皺を刻み、
「今に見ていろでござる」
 と、今度は侍口調で言った。
 わからない。彼の言わんとすることが一滴も汲みとれない。が、やはりどうしてもわたしは惹かれてしまうのだ。
 お弁当の中にはウインナーがちょこんと置いてけぼりをくっていた。タコ型のそれはわたしが試行錯誤を重ねた成果だった。
「ウインナー、嫌いなの?」
「いや、タコが怖いんだ」
 普通の口ぶりに戻って言う。
「どうして?」
「いっぱい足があるし、スミ吐くし」
「でも、これはスミ吐かないよ」
 わたしはウインナーに爪楊枝を刺して差し出す。
「だって足、たくさんあるもん」
 ブンガクは切れ長の目を忌々しそうにゆがめた。
 ふうんと言いながらわたしはウインナーを食べた。こんなにおいしいのに。
 五時間目の予鈴が鳴る。わたしは小走りに屋上をあとにした。
 授業中ふと、ブンガクのそのキチガイじみた思考こそ小説に向いているのではないかと思ったが、結局そのことを伝えられるタイミングは来なかった。
 わたしはそんな日々を繰り返し過ごし、そしてすんなりと卒業式の日を迎えた。気が遠くなるほどの六年間が、来てみればこんなにも呆気ないものかと、在校生に向かって「旅立ちの日に」をぼそぼそと歌いながら思った。ブンガクは先生たちの列に交ざってこちらを見ていた。目がたびたび合ったが反応らしい反応は何一つ返してくれなかった。屋上でわたしのお弁当を食べながらしゃべるとき以外の、つまり飼い主とペットの範囲外にいるときの無愛想な顔だった。わたしは、泣きたかった。
 教室に戻り、ブンガクは俗に言う「教師っぽい、いい話」を聞かせてくれたが、わたしは上の空で頬杖をついていた。普段ならすぐに騒ぎ立てる男子もこの日はなんだか大人しく、女子の中には嗚咽を漏らす子も出てきて、そういうよくある空気に浸っているうちにわたしの涙は乾いてしまった。
 ブンガクは後ろ手に窓の外へ視線を投げて、
「きみたちのことは、このクラスのことは、一生忘れません」
 と、ひどく教師ぶった。
 殴りたくなった。
 暴きたくなった――正体を。
 でもわたしは冷めたまま憮然としていた。肘が痛くなったので頬杖をやめた。
 気持ちはすっかり無味になってしまっていたがそれでもそのままブンガクとお別れをしてしまうのはもったいない気がした。
 だから屋上で待ちつづけた。
 しばらくしてブンガクはやってきた。なぜかかすかに微笑んでいた。
「みんなに呼びとめられちゃって、いやあ、まいったまいった」
 いともあっさりと言い訳を口にした。
「今後わたしのお弁当が食べられなくなるよ。いいの?」
 わたしは言った。
「ううん。よくない、よくない」
 ブンガクは急に口調を砕いた。ばかみたい。本当にこんな人が大人なのだろうか。大人であっていいのだろうか。わたしなら自分より十何歳も下の子どもに気をゆるめたりなどしない。決して。
 頭のずっと上を飛行機が飛んでいる。あんなふうに見える早さで離れられたらいいのになとわたしは思い、でもそれはそれでつらいんだろうなと即座に思い直した。飛行機は青空に轍を残して雲の内側に入っていった。口が開いてしまうくらい空を見上げていたわたしは、ゆっくりと視線を落とした。視界が、ぐらっと揺らぐ。理科の時間に習った「表面張力」ってやつのおかげでブンガクの目の前で失態を起こさずにすみそうだ。
「ねえ、ブンガク」
 わたしは依然、我慢をつづけながら呼んでみる。
「なあに」
 甘ったるい返事が返ってくる。
「わたしのこと、好き?」
「……うーむ」
「わたしがいないとだめになるでしょ」
 ブンガクは腕を組み真剣に首を傾けて考えている。が、「ふり」だということは聞く前からわかっていた。
「わたし、山崎富栄だもん」
 言いきってやった。
「むっ、そうきたか」
 ブンガクは額をぴしゃりと打った。
「なんなら心中、してあげてもいいよ」
 わたしの言葉に一拍置いてから、
「いい川が見つかったらね」
 ブンガクは「ちょーまじめ」な顔で言った。「まじめ」ではなく「ちょーまじめ」だから、やっぱり心の中は「ふまじめ」なのだろう。まあ、わたしもこの歳でこんなテイタラクの単細胞と死ぬのはいやだけど。でも、ちょっぴり本気だ。だってわたしたちは文学でつながっている朋輩なのだから。
 そのころのわたしにはそれほど文学というものは強大だったのだ。
 給水塔に一瞥をやってからすみやかに退散した。我ながら潔い去り際だと家路をたどりながらほれぼれ思った。ブンガクの寂しそうな悲しそうな顔を想像しては、楽しんだ――けれどやつは無論そんな顔などしていなかっただろうということをちゃんと念頭に置いた上で何度も一人、悦に入った。
 もしかすると――やつは早くもわたしの代わりを吟味しているのかもしれない。
 飼い主はときとしてペットに捨てられることもあるのだ。
 その日の夜、わたしは太宰治の写真にそうっとキスをした。はじめての口づけ、だった。

 ――いい川が見つかったらね。
 あの日ブンガクは言ったのだ。
「まだ見つかってないのかなあ」
 わたしがつぶやくと、千明が「えっ?」と声を上擦らせた。
「なになに、なんて言ったの?」
 しつこく訊いてくる。暇すぎて、些細なことにも敏感になっているのだろう。
「川」
 わたしは視界に映るあれこれをぼんやりと眺めながら簡潔に答える。
「かわ?……川って、川?」
「そう――か、わ」
「だから川がどうしたのよ」
「どうしたって、川は川よ」
「……川、ねえ」
 千明はなぜか一つ頷き、しばらくしてため息を漏らした。彼女のため息は新しい話題の前触れでもある。
「それにしてもここの店長、倒産って言葉を知らないのかしら」
「知っていたらもう少し躍起になるでしょうよ」
「まあ躍起になられてもあたしたちの給料には反映しないからいいけどね」
「でもバイトだからってこんなに暇だとさすがに罪悪感があるわ」
「ここのパン、結構おいしいのにね」
「ケーキだっておいしいし」
「とくにティラミス!」
「わたしはミルフィーユの方が好きだけど」
「えー、だってここのパイ生地、ちょっと硬くない? 絶対カスタードがはみ出して綺麗に食べられないし」
「あのね、ミルフィーユの上手な食べ方は、まず横に倒してフォークで押さえながらナイフを使うの。縦に切ったりしたら中身が出るのも当然じゃない」
 わたしの言葉に千明が唇をとがらすのが気配でわかった。
 飲料水の棚からコカコーラを取っている金髪の青年。カートを転がして走り回る子どもと、それを叱りつける母親。総菜コーナーのところで実演販売をしている人の、威勢のいい声がここまで聞こえてくる。
 そんなスーパーの一角でわたしはパン屋のバイトをしている。自給七百五十円。平日は朝の九時半から三時半まで、もしくは三時半から九時まで――そのへんは他のバイトさんと話し合ってうまく調整しなければならない。日曜日や祝日は朝から夜の九時までぶっ通しのときもある。暇な日は暇だが彼岸やお盆やクリスマスの前後は打って変わって忙しい。なぜならこの店はパンの他にも進物やケーキを置いているからだ。わたしは半年前からここで働いている。
「ああ、そういえばさ」
 千明が目を三日月に変えて肘でつついてくる。彼女とはこの職場で知り合って今ではいちばん気の許せる存在だ。年齢は二十六、わたしの方が一つ上。誤解を招くかもしれないので言っていないが、少し蓮っ葉なところが好きだった。
「例の話はどこまで進展したのよ」
「例の話って?」
 わたしはそこでようやく意識を会話に向けた。
「すっとぼけないでよ。昔の担任教師がホームレスになっているって言ってたじゃない。あれから何か確証は得た?」
「まあ、うん、そうだったよ」
「そうって――あの話は本当だったんだ!」
 小さく、きゃー、と悲鳴を上げた千明はなんだかとても楽しそうだ。
「教師からホームレス。素晴らしく絵に描いたような転落人生だわ」
「ひとの不幸を……」
「だって他人事なんだもーん」
 わたしは眉根を寄せ仕切りの裏側へ回った。そこはちょっとした休憩場所なのだが、バッグやら衣服やらお菓子やらのせいで、二人入るのがやっとのスペースしか確保されていない。わたしはスツールにどかっと座り、セブンスターをくわえた。
 千明はレジカウンターに立ったまま、
「吟子はさあ、その先生に会ったんでしょ。どきっとした?」
 確信的な言い方だったのでわたしは思わず煙草を落としてしまった。
「ふふん、図星?」
「ああ図星だよ。ちくしょう」
「で、再会の感想は?」
 わたしは天井に向けて煙を吐き出す。ここの明かりはなんでこんなに淡いのだろう。
「……感想、聞きたい?」
「うんうん、聞きたい聞きたい」
「んー、それが手しか覚えていないんだよね」
「手?」
「そう、手。意外と綺麗だった」
「ホームレスの手が」
「うん、ホームレスの手が。少し感動しちゃった」
「ホームレスの手ごときに?」
「うん、ホームレスの手ごときに」
「……わからない。難解だわ」
「簡単にわかられてたまるものですか」
「どことなく哲学さえ感じるわね」
「ふっふっふ」
「……もしかしてまだそのホームレスのことを」
「待て待て。それは違う」
 わたしは言下に否定して、そのくせ、
「まあ、でもねえ」
 なんて肯定寄りの答え方をしたところに、
「いらっしゃいませ」
 と言う千明の、とろんとまつわりつく声が響いた。わたしはあわてて煙草をもみ消しレジカウンターへ戻った。
 まあ、でもねえ――そのあと何が言いたかったんだっけ?
 重要な問題だったような、そうでもないような、でも忘れてしまったものはしかたない。
 売上金の勘定をすませ売れ残ったパンを千明と分けて、スーパーを出た。
 わたしたちは駅までぶらぶら歩いた。紡錘形の月が紫紺の夜空にくっきりと光っていた。生暖かい夏の夜気はうねるような動きで街を満たしていた。
 ブンガクは今ごろあの廃棄バスの中にいるのだろうか。何をしているのだろう。本を読んでいるのだろうか、それとも寝ているのだろうか。こんな熱帯夜に寝苦しくはないだろうか。
「またホームレスのことを教えてね。ていうかあたしには逐一報告しなきゃだめよ」
 そう言って千明はバスのステップを軽やかに駆け上がった。
 わたしは駅構内のファストフード店でハンバーガーとポテトとチキンナゲットを買い、改札をくぐってプラットホームへ行った。きゅう、という音とともに滑り込んできた電車の扉から人々が鈴なりに吐き出されてきた。何人もの人と肩がぶつかった。弾かれそうになった。まるでピンボールみたいに。
 はたと、ブンガクをうらやましく感じた。
 ホームレスなんて別次元のように遠い存在。
 そういう存在は流れに流されることはないのだろうか。
 電車が架橋の上を走る。レールのつなぎ目を越えるときの規則正しいショックが、高ぶった気持ちに心地よく伝わる。無機質な扉窓と無感情な闇の中間に茶髪で童顔の、自分の顔が浮かび上がっている。しばしそれを見つめたあと何気なく中吊り広告に目をやる。そしてまた少し体をこわばらせながら扉窓へ向き直った。また、そこには茶髪の童顔。
 小学校を卒業しブンガクと疎遠になっていくにつれ、わたしはまわりの女の子のように黒ぶち眼鏡からコンタクトに変え、髪型や化粧や服装に試行錯誤をこれでもかと言うほど重ね、世の男どもを手玉にとるすべばかり身につけていった。文学? はんっ、何それ? いつの間にか小説を読むネクラな人たちを蔑むようにもなっていた。
 ところが、だ。
 今朝、寂びれたブンガクを目の当たりにして、この、熱く燃えあがる感情はいかなる性質によるものか。いや、そんなことはすでにわかりきっている。わたしは再燃しているのだ、うん――。
 電車を降りると帰宅途中にある書店へ走った。
 新刊には目もくれず文庫コーナーに行き紙とインクの香りを吸い込みながら見て回る。どれもこれも読みたい。何一つ外れのない気がする。一度見た棚も、見落としがないかふたたび足を止める。直感的に背表紙を引き抜きぱらぱらとページを繰る。文学少女だったころわたしは確かにこういう所作で本を物色していた。本のすべてに敬意を払っていた。
 そこら中から言葉の静かな息づかいが伝わってくる。
 わたしは心の中でブンガクに向けて手刀を切る。
 結局、川上弘美の本を選んだ。適当にめくったページの一行に一目惚れして買ったものの、店を出るころにはそれがどんな文章だったかすっかり失念していたわたしはしかし、一目惚れしたときの胸をわしづかみにされるような感触だけはちゃんと覚えていた。言葉は暗唱できるかどうかよりもどれほど奥深くの場所に侵入できるかが肝心なのだ。潜水のように息継ぎなしで水深三十メートルを超えるくらい潜れる一流の作家かどうかが問題なのだ。
 家路につくまでに何度うきうきしたことか。
 夜が濃かった。
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