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コウちゃんの恋の行方

 コウちゃんはリンコのことをものすごく愛していた。コウちゃんはまだ高校生だったけれど、リンコを見つめるそのまなざしは、まぎれもなく、愛、だった。
 コウちゃんはそれはそれは地味で、目の前にいるのに目にとまることのない、いまにも消えてしまいそうな存在だった。どれほど地味かというと、たとえば、リレーの順番を決めるときも席替えをするときも仲間はずれにされ、階段からころげおちて手首を骨折したときだって誰も助けにこなくて、あげくのはてには修学旅行で東京に行ったとき、先生たちにも忘れ去られて、現地に取り残されてしまったりもした。べつにいじめられているわけではなく、それほど目立たなくて、空気みたいに自然すぎるのだ。
 そんなコウちゃんは、クラスメートのリンコに恋をしていた。熱烈な視線で、心底しあわせそうな顔で、いつもいつもリンコを見つめていた。
 リンコはクラスでいちばんきらきらしていて、注目を集めるために生まれてきたような可愛い女の子だ。田舎で育って田舎で生活しているリンコだけれど、そのたたずまいはあきらかに並はずれていた。だから、異常にもてる。まわりの女子たちがため息をついて嫉妬すら忘れてしまうほど、こうこうと輝いていた。男子は全員リンコに夢中で、そのなかに、コウちゃんもいる、というわけだ。
 コウちゃんはほかの男子とおなじようにリンコにアプローチするのだけれど、毎回毎回、悲しくなるくらい結果はみえみえだった。
 コウちゃんは決意をかためて話しかけたりする。リンコは友だちとおしゃべりをつづけるだけで、その瞳がコウちゃんを映しだすことはない。リンコが消しゴムをなくしたときだって、給食のデザートが足りなくて困っていたときだって、まっさきにコウちゃんが自分のぶんを差しだしたというのに、リンコにもまわりの人にさえ、誰にも気づかれないのだった。授業中にリンコがおならをして、教室じゅうが困惑でいっぱいになったとき、コウちゃんは顔を赤くしながら手をあげてせっかく身代わりになったのに、誰も気づかないものだから、けっきょくはその勇気さえ台無しに終わった。
 だけど、コウちゃんはまだまだくじけない。夏の強烈な陽射しがさし込む放課後の教室、コウちゃんはまわりをきょろきょろと見まわし、こっそりとリンコの机のなかにラブレターを入れたのだ。コウちゃんの思いがたっぷりとつまった手紙。
 あくる日、そのラブレターには差出人の名前が書かれてなくて、一日じゅう、誰だ誰だ、と、教室は犯人捜しに盛り上がった。リンコは調子にのって、告白文が書かれた便箋をみんなに見せびらかしていた。
「なになに……愛しのリンコさん、だってー」
 リンコはふざけた口調で読みあげる。
「リンコさんはいつもどんなことを考えていますか。それはきれいなことですか。それとも、すこし悲しいことですか。ぼくは、いつもはずかしくてこの場にいたくないような、泡みたいに消えたくなるような、胸の奥が窮屈になっていくような気持ちになります。ありていにいってしまえば、しじゅうリンコさんのことを考えているからです。リンコさんを思えば思うほど、身体の芯がこんにゃくみたいにやわらかくなっていき、ぼくはぼくじゃないような、どうしたらいいのかわからない曖昧なものになっていきます。リンコさん、好きです。この手紙は、つきあってください、という意味じゃなくて、ただ好きだとつたえたかったから書きました。だから、もういちど言います。好きです、とても」
 だってさ、と、リンコは便箋を折りたたみながら言う。
 これって告白のつもりなの。なんだよ、こんにゃくって。ふざけてるんじゃない。リンコ、相手にしないほうがいいよ。そうそう、ほっとけって。みんなが口々に言う。男子はいまいましく顔をゆがめて、女子はほとほとあきれ返っている。リンコに告白するなんて、と、みんなはそう思っている。
 コウちゃんはすみっこの席でちいさくちぢこまっていた。

 リンコには好きな人がいた。クラスメートでも教師でもなく、一年先輩のケイタくんに片想いをしていた。
 ケイタくんは、いわゆる「不良」だ。学校のあちこちで煙草をすぱすぱ吸っているし、教師を、校長までをも殴って警察にしょっぴかれ、一カ月の停学処分をくらったり、だけど、その腹いせに学校の窓ガラスを割って、またまた警察のお世話になる、という日常をくりかえしている要注意人物だった。誰もがケイタくんを避けていたし、ちかづいたら殺されてしまう、コンクリートづめにされて海に沈められてしまう、と、やくざを見るような目で見ていた。
 なのに、リンコはケイタくんを好きなのだ。
 それには理由らしくない理由があった。ある日、掃除の時間にリンコは裏庭を掃いていたら、煙草をふかしているケイタくんと出くわしてしまった。
 ケイタくんは立ち上がり、
「おう、おまえが噂の美少女か。やっぱ、噂になっているだけあって、えらいべっぴんだなぁ」
 と言った。
 リンコは怖さで身をこわばらせる。
「そんなにおどおどするなよな。おれが怪物みたいじゃん」
 ケイタくんはにこりと笑って、指をリンコの肩に持っていく。
「ほれ、糸くず。取ってやったぞ」
 その瞬間、リンコは稲妻にうたれて、あやうく気絶しそうになった──らしい。
 リンコは教室にかけあしで戻ると、早速さきほどの出来事をみんなに話す。声には甘い熱がこもっている。
「ねえねえ、ケイタ先輩いるでしょ。あの人、ほんとうはいい人だったの。だってね、糸くずを取ってくれたんだよ。あんたたち、女の子の糸くずをさりげなく取ってあげたことはある? ないでしょう。面識のない女の子の糸くずをとれる優しさなんて、たいていの男は持っていないものよ。それでね、これからは『ケイタ』って呼んでくれ、って言われちゃったの。でもあたし、いきなりだとなれなれしすぎるかなと思って、とりあえず『ケイタくん』って言ってみたの。そしたらね、彼、『おう、じゃあ、またな』ってぱっと手をあげて颯爽と去っていったの。格好いいでしょ」
 まわりのみんなは、ぽかんと口をあけていた。
 それからのリンコは無敵だった。どんなふうに無敵だったかというと、化粧に熱心になってますます女を磨きはじめたのだ。なにからなにまでケイタくんのために。ほとんどの男子は、あの先輩が相手じゃ分が悪すぎる、と、首を横にふって白旗をかかげる始末。
 でも、コウちゃんだけはちがった。いつもどおり熱烈なまなざしをあますところなくリンコにそそいでいた。ただ、そのまなざしのなかに、すこしだけ憂いがふくまれていた。どんどん好きな人が遠ざかっていくのを目の当たりにして、コウちゃんの背中は淋しそうに丸まっていくのだった。
 リンコはちやほやされなくなったけれど、かわりに、一途なきらめきのようなものは増していった。はたから見ても容易にわかるほど。授業中はノートにケイタくんの似顔絵を描き、塾通いをやめて、ケイタくんが入りびたっているゲームセンターに通うようになった。運動会でグラウンドを駆け抜けるケイタくんを、女の子と楽しそうに会話するケイタくんを見かけるたびに、リンコはいちいち一喜一憂をくりかえしていた。頭のなかはケイタくんで埋めつくされていて、行動のひとつひとつがケイタくんに基づくものだった。
 いままでのリンコは自分からなにかに向かうタイプではなかった。手に入れようと思えばたやすく手に入ったし、そもそもこちらから行動を起こさなくても勝手に向こうからわらわらとやってきて、笑わせてくれたりほめたたえてくれたり、自分の価値を高みにもっていってくれた。楽な環境だった。
 だけど、いまのリンコはなかなかの苦戦をしいられていた。一年上の先輩はどうやらリンコを友だちとしてしか見てないようで、気さくに話しかけてくるその口振りは、あまりにも恋愛からかけ離れていた。
 実際ケイタくんは、
「リンコは顔が幼いせいか、妹みたいに感じるなあ」
 と呑気に言う。
 さらに、
「まあ、今後もゆっくりと友情を深めていこうや」
 とトドメを刺すのだった。
 リンコは、これ以上は落ちない、というくらいがっくりと首を落として、だけど、つぎの日には意気揚々とケイタくんのところへ走っていき、またしてもカウンターパンチをくらう──そんな感じで日々はすみやかにすぎていった。
 卒業式の日、リンコは、きょうこそケイタくんに告白をしよう、と堅く誓っていた。なにがなんでもケイタくんに思いのたけをぶつけるのだ、玉砕覚悟で挑むのだ、と。その日のリンコは、めずらしく鼻息があらかった。在校生はお休みのはずなのに、リンコは朝っぱらから学校の外で待ちぶせていた。
 そよとの風もない、お昼前。どこからか小鳥のさえずりが聞こえる。式がつつましやかに──この日、問題を起こすかと危惧されていたのだが、ケイタくんは意外にも大人しくしていた──終わり、正門からケイタくんがひとりでとぼとぼと出てきた。
 リンコは学校の前の並木に隠れたまま、一歩も動こうとしない。たぶん、動きたくても動けないのだ。身体がふるえている。そんなにも緊張するなんて、はじめてのことだろう。
 なにも知らないケイタくんがどんどん近づいてくる。リンコはいまだに動けない。
 空が、とっても青い。
 そのとき、リンコは誰かに突きとばされた。勢いあまってケイタくんにぶつかる。
 リンコ。ケイタくんはつぶやくように言う。
「どうして、こんなところにいるんだよ」
 リンコは動揺しながらも、
「えっと……なぜか来てしまいました」
 ケイタくんはふっと笑みをこぼす。
「おれさ、やっと気づいたよ。今日が近づくたびにこの学校から離れたくなくて、リンコの顔を見られなくなるのが無性に淋しくて、心のなかにぽっかりと穴ができちゃったような気分に襲われてた」
 リンコはぽうっとした顔で聞いている。ケイタくんは言葉をつぐ。
「おれ、リンコのこと、好きだわ。めっちゃ、惚れてる」
 卒業生たちが正門からいっせいに出てくる。手をぶんぶんとふったり、泣いていたり、じゃあな、と声をかけあったり──みんな別れを惜しんでいる。三年間をともに乗りこえた、最後のクラスメート。
 リンコはこくりとうなずく。
「あたしも、すごくケイタくんのことが好き。学校だけの関係で終わらせたくなかった。つづきが、ほしかった」
 空が、とっても青い。憎いくらい、青い。
 並木の陰に隠れたまま、コウちゃんはまぶしい笑顔で、ケイタくんとリンコをながめていた。まぶしくて、ちょっぴり哀しみのにじんだ笑顔で。

 ケイタくんは、お父さんとお母さんが経営している映画館をひきつぐことになった。町中の、ちいさな喫茶店のとなりに建っている、ちいさな映画館を。地元の暴走族からお呼びがあったらしいけれど、ケイタくんは更生したのか、はたまたリンコにとがめられたのか、道をふみはずすことはなかった。進むべき明確な道しるべが立ったからかもしれない。
 それから一年リンコの卒業を待って、ふたりは早々に結婚までいきついた。年齢の面や経済的な面でふたりとも両親に反対されていたようだが、ケイタくんとリンコはもちまえの気の強さと押しきりのよさ、なんといってもお互いがお互いにそそぐ愛の強靱さで、両親をうち負かしたのだった。
 夫婦という堅い絆と、恋人という堅い信頼関係。そのふたつともふたりには十二分にそなわっていた。映画不況で経営がかたむきはじめても、ケイタくんとリンコは折れたりめげたりはしなかった。未来にたいして、愚直なまでに前向きだった。
 ケイタくんは、
「ぜったいに今後もいい映画は出てくるから、それまでの辛抱だ」
 と力強く言っていたし、リンコも、
「日本から映画文化をなくしたら、心がとぼしくなるだけ。だから、みんながそのことに気づく日が来るのを待とう」
 とねばりづよく言っていた。
 月日が流れ、二十五歳のリンコのおなかのなかには、大切な、かけがえのない命の灯火がやどった。ふくらんでいくおなかをさすっては、目をほそめ、敬虔さや慈しみを口もとに浮かべていた。母の顔に、なろうとしていた。
 出産の日、夫であるケイタくんは新作映画の下見に東京へと出張していた。リンコは分娩室のなか、そこしれない不安と、はてしない心ぼそさに押しつぶされそうだった。あたらしい家族が生まれるよろこびはあったけれど、ひとりではなかなか太刀打ちできそうになかった。
 出産は二十六時間にもおよんだ。苦痛にたえられなくなったリンコは、言いあらわせないほどの叫び声をあげた。
 そのとき──。
 のちのリンコはこう言う。
「もうだめだぁ、って思ったときね、誰かの手がそっとにぎりしめてくれたの。ほんとよ。それは助産師さんでもケイタでもなかった。とても温かくて、ふわっとした手のひらで、まるでやわらかい風にくるまっているようだった」
 長男のトビオは人よりも成長が──歩きはじめるのもしゃべりはじめるのも、ひやひやするくらい──遅かったけれど、ケイタくんとリンコは愛情をたんまりとこめたまなざしで見守っていた。トビオがひとつひとつ物事をこなしていく都度、ふたりはぴょんぴょんと跳びはねながらハイタッチしたり、近所や親戚の人たちに自慢したりして、すべてが初々しい日々を堪能した。
 リンコはほほえんで言う。
「トビオはなんでも口にいれる癖があるけどね、それはあたしが注意しておけばいいことじゃない? だから、しかることなんてなにもないの。あの子は完璧よ、すべてが完璧。親の欲目でもなんでもないの。ほんと、愛くるしいったら、ありゃしないわ」
 その年の映画は秀作ぞろいで、ケイタくんの映画館は息を吹きかえしたかのようにきらきらと輝いて見えた。大きな看板がずらっと並んで新作が公開される初日は、ふだんは主婦業に専念しているリンコまでもが駆りだされ、姑といっしょに売場の仕事をつとめた。長蛇の列、とまではいかないけれど、ちいさな映画館は人の出入りが盛んになった。
 ──日本から映画文化をなくしたら、心がとぼしくなるだけ。だから、みんながそのことに気づく日が来るのを待とう。
 リンコの言葉は、ようやくこのひなびた町の人たちにも届いたようだった。
 コウちゃんも連日、映画を観に足を運んでいた。
 その映画館の人気の秘訣は、ケイタくんのがんばりでもあった。ケイタくんは映画が終わると、いそいそと大きなスクリーンの手前まで出てきて、さきほどの映画のよさをせつせつと語りはじめるのだ。
 ケイタくんはマイクを片手に言う。
「みなさん、いかがでしたか」
 会場から拍手がひびく。いいもんをみさせてもらったよ、と満足そうな声も、つまんなかったぞぉ、と、ヤジもとぶ。
「おれはもう、感動しっぱなしでしたよ。なんたって、あの売れない小説家が居酒屋の女将にプロポーズするところがよかったですよね。お金がなくて、だけど、指輪を渡したくて。全力で愛せるゆいいつの人のために、あちこちからお金を工面して……でも、けっきょく指輪を買えなくて──しかたなく空気の指輪を渡すんですよねぇ。幸福はささやかなところに落ちているものです。肝心なのはお金や栄光ではなく、愛のかたちをどんなふうに相手につたえるか、なんです。たとえば親に、ありがとうと言ってみる。たとえば好きな人に、好きだよ、とささやいてみる。そういう些細な言葉でもおこたることなく、何度でも言うべきだと思います。愛はいくらもらっても、うれしいものなんですから。そして、あのシーンは今後も語りつがれるでしょう。みなさんはその見届け人なんです、みなさんも、おれも、しあわせ者です」
 ケイタくんは次第に熱くなっていき、最後は決まって涙ぐむのだった。
 その演説の評判はじょじょに広まっていき、映画よりもケイタくんの演説を聞くためにわざわざチケットを買う人まで出てきた。もちろん地元のテレビ局や新聞社もほうっておくはずはなく、ケイタくんは頻繁にメディアに登場することとなった。同時に、ケイタくんの妻ということでリンコもテレビに出たら、そのあまりの美貌に、翌週からは広告やCMの依頼がつぎつぎと舞い込んでくるようになった。たちまち、ケイタくんとリンコは人気者になった。
 リンコはコーヒーをゆっくりとのみほしてから言う。
「トビオの子守はお義母さんがみてくれるんだけどねえ。それにしても、最近はいそがしくてあんまり遊んでやれてないわ。これからパチンコ店のCMを撮らなきゃいけないし、明日は明日で、お米のキャンペーンガールとしてとなりの県まで行かなければならないのよ。それに、こんなにも順風だと、かえってあとが怖いわ。何者かに返り討ちにされそうで」
 リンコの予感どおり、波乱の波はまえぶれもなく押し寄せてきた。
 いっきに映画を観る人が離れていったのだ。原因はほかでもない、優良な映画がなかなか生まれてこないからだった。ケイタくんの映画館はみるみるうちに廃れていった。公開初日だというのに、席は三分の一も埋まらない。上映期間もなかばにさしかかると、一日じゅう客が来ない日もでてくるようになった。むしろ、となりのちんけな喫茶店のほうが繁盛しているようでもあった。
 かつての盛況ぶりは完全になりをひそめた。
 それでも、ケイタくんは映画が終わったあと、しみじみと、あるいはとうとうと語るのだ。お客はコウちゃんただひとりのときでも、演説の熱が冷めることはなかった。以前とおなじ質で、以前とおなじ情で、突き動かされるように語るのだった。
 だけど、経営は困難になり、映画館と本宅までをも銀行に明け渡さなければならなくなった。ケイタくんは両親と離れ、リンコともうじき四歳になるトビオをひきつれて古びたアパートに引っ越した。部屋が寒々しくなると、おみそ汁さえ寒々しく感じるものね、と、いつだったかリンコは、ほつれた髪を耳にかけながら言っていた。
 職を失ったケイタくんは毎日職安にかよったけれど、外に出てくるころは決まって肩をしょんぼりと落としていた。
 リンコはリンコで、トビオを保育園に行かせている最中にできるパートを見つけたけれど、仕事になれていないせいか、すぐにやめさせられてしまった。もうそのころのリンコは広告やテレビCMといった、華やかな仕事からは遠ざかっていた。目の下や口もとに、疲れや哀切をたたえていた。あいかわらず美しいには美しいのだけれど、そこには以前のような闊達さや優美さがうかがえない。いわば、ふつうのうつくしさ、なのだ。
 リンコはソファーに横座りのまま、うらがなしそうに言う。
「あたし、皮膚が弱いのかなあ。これ、見てよ、この手。ささくれたり裂け目から血がにじんだりしているでしょ。まるで自分の手じゃないみたい」
 そして、空しく笑むのだった。

 ケイタくんが転機となるチラシを持ち帰った日は、ちょうどトビオの誕生日だった。
 ケイタくんは息巻いて言う。
「なあリンコ、この大会に出てみないか」
 リンコは目をまんまるにして答える。
「なあに、それ」
「見たらわかるだろ。漫才の大会だよ。おれたち、漫才してみようぜ。おれの天才的な話術とリンコの美貌をあわせりゃ、鬼に金棒だって。優勝まちがいなし。賞金もでるしよ、テレビで食っていけるかもしれない。この不景気のなか、愚痴をこぼしながら職探しに明け暮れるよりはよお、もっとぱあっといこうぜ、ぱあっと」
「ぱあっと、かあ。そうだね、ぱあっといってみようか」
 ふたりはひさびさに笑いあった。枯れていたものが潤うような笑いだった。トビオは大好物のチーズケーキに無我夢中で、口のまわりを汚しながらがっついていた。
 そんなこんなで、近県で催される漫才の大会に出場することになった。
 大会の日は間近にせまっていて、ろくに練習らしい練習はできなかったふたりだけれど、ケイタくんに言わせれば、おれたちは素のまんまが一番おもしろい、らしく、ぶっつけで本番にのぞんだ。
 ケイタくんは頭をリーゼントに固めて、ひさしぶりにぼろぼろの学生服を着、うってかわって、リンコは純白のワンピースという出で立ち。コンビ名は「ケイタとリンコ」。極端な格好のふたりだったけれど、そのアンバランスさが妙におかしかった。不良ぶっているケイタくんをお嬢さまのリンコが叱咤するスタイルの夫婦漫才は、会場の客に大うけし、付け焼き刃がかえってよい方向に転がったのだった。
 あれよあれよと快進撃はつづき、気がつけば決勝までコマをすすめていた。ケイタくんとリンコが身体ぜんたいをつかって笑いを表現するのを、コウちゃんも客席から優しいまなざしで見つめていた。
 結果をいってしまえば、ケイタくんとリンコは惜しくも優勝を逃した。プロを目指しているという高校生の正統派漫才に負けてしまったのだ。会場からはかすかにブーイングが起こった。ケイタくんのあの演説が好きだった人や、リンコのファンも駆けつけてくれているからなおのこと。
 ケイタくんが壇上から準優勝のよろこびを言う。目に涙を浮かべて。
「おれたちはまだまだ未熟なひな鳥だけれど、これからもみなさんをすこしでもしあわせな気持ちにできるような、楽しい漫才をやっていきたいと思います。空を悠然と飛べる日をめざしてがんばりますので、どうか今後もあたたかい目で見守ってください」
 拍手がまばらに響き、それはじょじょに隅から隅まで広がっていった。
 リンコも泣いていた。重くのしかかっていたものがすうっと消えていくような、おだやかな泣き笑いだった。
 快進撃はまだまだ終わらない。ふたりの夫婦漫才を見ていたテレビ局のプロデューサーから、今秋にはじまるバラエティ番組で起用してみようという旨で、ケイタくんのもとに連絡が入ったのだ。地方のみに流されるささやかな番組だけれど、ケイタくんとリンコは踊りくるうほど歓喜した。トビオが生まれて以来になる、大仰なよろこびだった。
 さっそくプロデューサーやスタッフと打ち合わせをし、番組に初回から出演することになった。司会ではなくグルメリポーターとして中継での出演だったけれど、回を重ねるごとに視聴者からの反響が大きくなっていき、ケイタくんとリンコはスタジオの仲間に加わった。ケイタくんはいつでもどこでも容赦なくボケて、リンコは相手が司会者だろうが大学の教授だろうがお構いなくツッコミを入れた。漫才の大会があるとかならず出場をし、なかなか優勝とはいかなくとも、入賞の常連コンビとなった。人気もつまさきあがりに上昇していき、ときには関西からお呼びがかかることもあった。
 リンコは満ち足りた表情で言う。
「映画館を失ったときはほんと絶望的だったけど、神様っているんだね。意外にも近くにいてくれて、ずうっとあたしを見守ってくれているみたい。これからもどんどん漫才を追求していって、東京のテレビにも出ちゃうんだから。そしたらお金もいっぱい貯めて、また映画館を建てちゃうんだから」
 しかし、リンコの望みは儚くもやぶれてしまうことになる。
 不運や不幸という得体のしれない怪物は、おみくじとはちがって、さあ、これから引くぞ、という気構えも、引くのはこわいな、やっぱりやめようかな、という迷いも一切あたえてくれず、忽然とあらわれては、罪のない人を、周囲の人までをも巻き込み、どん底に突き落とすものだ。
 ケイタくんは、とつぜん死んだ。享年三十三歳。死因は、熊に襲われて。誰にも知られていない孤高の滝を見よう、という番組の企画で山の奥深くまで入り込んでいたときにばったりと熊に出くわしてしまい、逃げる余裕もなく身体を八つ裂きにされてしまったのだ。ちなみに、カメラマンや照明さんといった同行者は無傷で助かったらしい。
 どんよりとくもった空の日。ケイタくんの笑っている遺影がやけに目に痛い。式場は番組プロデューサーをはじめ、たくさんのスタッフや「ケイタとリンコ」が好きだったファンに埋めつくされていた。すすり泣く人や泣きじゃくる人、わめき声をあげる人や嗚咽をもらす人。さまざまな人たちに、おしなべてケイタくんは愛されていた。
 リンコだけは、泣かなかった。いちばん悲しいくせに、泣かなかった。身体は激しくふるえて、顔はいまにも崩れ落ちそうだったけれど、それでも、ハンカチを握りしめてこらえていた。周囲の人たちが気おされるくらい、強かった。
 のちのリンコは言う。
「一度でも糸がぷっつんときれて、泣いてしまったら、一巻の終わりだと思ったの。あたしがぬけがらになったら、トビオがこまるでしょう。だから、泣かなかったの」
 その後のリンコは気丈だった。ぜったいに悲しくて淋しくて悔しいはずなのに、とり乱すことはなかった。

 コウちゃんはいつもリンコのそばにいてあげた。朝は朝食をつくるリンコをほほえみながら見届け、昼はパートの仕事に励むリンコにやわらかな視線をむけ、夜は疲れはてたリンコの肩をやさしくもんであげるのだった。コウちゃんはあいかわらず昔とおなじ、熱烈な愛情をこめたまなざしで、一途にリンコを見つめていた。愛情の度合いが深まることも、まして薄らぐこともなく、つねに一定の量を放出していた。
 コウちゃんはふつうの人には見えない。リンコに気づかれることは一生、ない。そのことをコウちゃんは嫌になるほどわかっている、はずだ。どんなにリンコを思っても、焦がれて焦がれてしかたないくらい思っても、自分のこの姿が彼女の目に映ることはないと、痛切に感じているはずだ。
 だけど、コウちゃんは成仏することはなかった。リンコを好きで好きで、たまらなく好きだった。愛して愛して、たまらなく愛していた。
 この時期、リンコは迷っていた。
「ねえ、聞いてよ。あたしね、また映画館をやろうと思っているの。以前みたいにささやかなところでいいのよ。そんなに規模の大きなことをしようとは思っていないから。ただ、人に映画のすばらしさをつたえたいの。ケイタといっしょに漫才ができなくなったいま、あたしにできることといったら、また映画のよさを唱えること、映画で心をうるおしてもらうこと――だと思うの。でも、うまくいくかどうかわからないし、また二の舞になりそうで、すごく怖い。ねえ、どう思う?」
 リンコは前とくらべて決断力が著しくにぶっていた。つらい経験をへて、やみくもな行動をつつしむようになっていた。無意識のうちに。
 一歩をふみだせない。冷静にやってくる不安が、手足を、心までをも躊躇させる。
 リンコらしくないリンコを本来の姿によみがえらせたのは、ほかでもない、コウちゃんだった。
 春の陽気な日射しがさしこんでくる部屋で、リンコはのんびりとお茶をしていた。テーブルには大好きなショートケーキと、ケイタくんとおそろいで買ったティーカップ。だけど、ケーキに手をつけることはなく、お茶ばかり飲んでは深いため息をもらしていた。銀行に借金して、ありったけのお金を捻出してでも再起するべきか否かを、真剣に考えれば考えるほど、答えとは遙かに遠いため息が出るのみだった。
 と、台所のテレビがぼうっとついた。トビオは友だちの家にいっている。リモコンもちゃんとそこにある。なのに、テレビは勝手についた。
 画面はしだいに鮮明になっていく。いまの時間帯、何年も前の名作をやっているようだ。ニュー・シネマ・パラダイス。ケイタくんもリンコも、泣きに泣いた映画だった。
 主人公が映画館の客席にすわって、巨大なスクリーンをながめている。その横顔は、人生の大切なもの──すなわち本来心の然るべき場所にそなわっているはずの、なくてはならない感覚や、限りある時間のなかで自分がやらなければならない何か──をふんわりと教えてくれている。
 リンコは、なにしてんだろ、あたし、と、つぶやいた。くちびるをキュッとひきしめ、ゆっくりと、さも断定的にうなずく。
「いつまでもうじうじしているなんて、らしくないよね」
 リンコの力強い言葉に、となりにいるコウちゃんも、うんうんと満足そうにうなずいていた。
 それからのリンコの行動力はすさまじかった。漫才で貯め込んでいたお金をほぼ全額ひきだすと、さっそくかつての映画館を買いもどした。三日三晩まったく眠らずに手製のチラシをつくって駅前でくばったり、テレビ局の友人知人に連絡して、映画のすばらしさを熱をこめて町じゅうにせつせつと訴えた。
 リンコはカメラから視線を動かさずに、ひとつひとつの言葉に思いをのせて言う。
「最近の映画はつまらない、という声をたびたび耳にします。たしかにことさらお金をかけたり、ことさら大げさにやってみたり、と、狙いどころをはきちがえているものもあります。そういう狭隘な映画もあるにはありますが、けっして、すべてではありません。なかには作り手の体温や熱意が感じられる作品や、あるいは、スクリーンのなかに目をそむけてはならない、心を豊かにするためにも知っておかないといけない、悲哀や歓喜、ときには抑えきれないほどの怒り、よい意味で色とりどりの感情がつまっている作品もあります。みなさん、情をはぐくむためにも映画を観ませんか。お金とちがい、心の財産は、かけがえのない糧となってくれると思います。そして、みなさんがひとつでも多く、魂をもゆさぶられるような作品に出会えることを、切に願います」
 リンコの声は、すくなからずこの町には届いていた。映画館に向かう足も、ゆるやかではあるが、増えつつ強まっていた。リンコはなかなか上映作品の選択もよく、評判は日ごとに高まっていった。
 陰の立役者であるコウちゃんは、リンコの凛とした後ろ姿を、いつもどおりのかわらないまなざしで見つめていた。リンコが笑顔になるたびに、好きな人がはきはきと仕事をこなすたびに、コウちゃんは心底しあわせそうに目をとろんとさせるのだった。
 そんなコウちゃんには悩みがあった。存在がばれそうになっているのだ。
 というのも、ある日トビオの発したひと言が原因だった。
「ねえ、おかあさん。ずっと気になっていたんだけどね。このひと、だあれ?」
 リンコはきょとんとする。
「このひと、って?」
 八歳のトビオは虚空を指さして、むきになってぴょんぴょんとはねる。
「このひとだって。ここにおにいちゃんがいるでしょう」
「それはどんなおにいちゃん?」
「えーとねえ」
 トビオにじっとみつめられて、コウちゃんはたじろぐ。
「髪はみじかくてね、目はすこしほそくてね、学生服を着た、ふつうのおにいちゃんだよ」
「学生のおばけなんて、ずいぶん変わっていること」
「あー、ぜんぜん信じてないでしょ」
「ふふふっ」
 リンコは歯牙にもかけない。
 おばけといわれたコウちゃんは、すっかり気落ちしていた。
 それからのコウちゃんは、リンコの家から姿を消した。でも、遠くからリンコを切実な思いをいだいて見守っていた。雨の日でもアパートの前で見守っていたし、リンコが車にひかれそうになると、ふいにあらわれては助けたりもした。コウちゃんの輪郭はじょじょに薄まっていった。たぶん、リンコにふれる都度、この世のできごとに干渉する都度、神様のような人にとがめられているのだ。だから、もともと生身ではない、そこにあるようなないような身体が持ちこたえられなくなっていっているのだ──と思う。
 リンコは知らない。コウちゃんの存在を、知るよしもない。
 だけど、コウちゃんはその身体──その、現実にはない生命──が消えうせるまで、リンコのそばを離れない決意をしている。好きな人を、最後の最後まで見届ける決意をしている。強くて堅くて、かんたんには折れることのない強靱な決意を。
 ──ひとはどれほどまでひとを愛せるのだろうか。
 コウちゃんを見ていると、胸がしめつけられる。
 ──ひとは愛をつたえなくても、平気なのだろうか。
 コウちゃんを見ていると、心臓が早鐘をうつ。鼓動が身体じゅうに響きわたる。どくどく、どくどく、鳴っているのが苦しいくらいにわかるのだ。

 わたしは、コウちゃんのことがとても好きだった。コウちゃんがリンコにむけるまなざしに匹敵するくらい好きなのかと聞かれると、コウちゃんがいだいている「愛」に近いものかと聞かれると、正直自信がない。けれど、ほんとうに、心から好きだった。中学生のころ、コウちゃんが死んでしまうまで──いや、死んでしまってからも、ずっと、ずうっと好きだった。
 わたしは三十前にいまの夫と知りあい、五年のつきあいをへて結婚したのだが、そのあいだも、その後も、コウちゃんのことが頭から離れることは一度もなかった。かたときも、忘れたことなどなかった。
 コウちゃんがリンコを見つめているとき、わたしはよく嫉妬していた。コウちゃんにふりむいてほしくて、幽霊だとわかっていても、わたしはやっきになった。だから、わたしはリンコと友だちになった。目的は、リンコの近くにいたら、コウちゃんに自分の存在を知ってもらえるかもしれないから。
 内向的なわたしと、はつらつとしていて、誰にでも明るく接する彼女とは、ぜんぜん色がちがったけれど、でもわたしはリンコを好きになった。中学校のときは、ぜったいにソリがあわない、と勝手に思いこんでいて、リンコに話しかけられても無視していた──というか、どんな返事をかえせばいいのかわからなくて、あいまいに笑っていた──わたしだったが、意外にリンコとは趣味や価値観をわかちあうことができた。たとえば、わたしが好きな漫画をリンコも読んでいたし、リンコがつかっている化粧品は、地味なわたしの肌にもなじんだ。わたしはリンコのおかげで、ずいぶんと変われたのだ。当初は、コウちゃんに目をむけてもらうため、だったけれど、そんな理由はしだいにどうでもよくなっていった。
 それに、コウちゃんはゆるがない、と確信してもいた。コウちゃんがリンコ以外の子を見ることはぜったいにありえない、と。
 わたしは、たしかに嫉妬していた。かなり長い間、嫉妬心を燃やしていた。わかりきったことだったけれど、どうしても納得できなかった。友だち、ではなく、恋敵、としてリンコを恨んでいたのも、ほんとうだ。
 そういうものがなくなったのは、いったいいつごろだろう、と、過去をふりかえってみる。学校の並木道でコウちゃんがリンコの背中を押して、ケイタくんとの恋の成就に一役買ったところだろうか。
 いや、ちがう。あのとき、わたしもリンコのそばにいて、リンコを励ましていた。ケイタくんと結ばれちゃえ、と、いやしく思っていた。すると、コウちゃんがリンコを歩道へと押したのだ。
 ケイタくんとリンコが結ばれた瞬間のコウちゃんの横顔を見て、わたしはますますリンコを憎々しく思っていた。
 リンコの出産のとき、わたしは長く薄暗い廊下でずっと祈るように待っていた。リンコ、がんばれ、リンコ、だいじょうぶだから、と、何度も何度も胸のうちでつぶやいていた。ケイタくんのばか、なんでこんな大事な日に仕事なんかしているのよ、と、旦那さんをののしったりもした。
 夜明け前だったろうか。コウちゃんが分厚いドアをすうっと抜けていくのを目にした。そのときわたしは不覚にも、よかった、と思った。いまでも、鮮明におぼえている。悔しくて情けないほど、あざやかに思い出せる。
 たぶん、あのときにわたしは許したのだ。コウちゃんのいちずな恋も、憎らしいくらいにすてきなリンコのことも、なにもかも、わたしは許せたのだと思う。
 この年になって、やっとわかった。
 気づけば、わたしはもう還暦をすぎていた。リンコもおなじだ。トビオは高校を出たらすぐに上京して、いまや映画監督となって何作か映画やドラマ、たまにCMなどを撮っている。正月に帰ってきたらリンコやわたしにむかって、おふくろもおばちゃんもこんど映画に出さしてやるよ、どんな役がいい、などと一丁前に言って楽しませてくれる。
 ゆいいつ代わり映えしないのは、コウちゃんだけだった。あいかわらず学生服を着て、幼い顔をして、だいぶしわの増えたリンコに愛のまなざしをそそいでいる。彼のことを、幼い、と思えるのは、わたしが老け込んでいる証拠だけれど、それでも、コウちゃんのことがすこしだけ好きなのは変わりない。コウちゃんを好きだ、と思えるたびに、わたしもまだまだ若いな、などと自分自身にあきれつつも感心してしまう。
 コウちゃんはずいぶんと薄らいでいる。でも、まだこの世界に身をおいている。泡沫のようにいまにもはじけてしまいそうだけど、なんとか幽霊としての存在感を保っている。
 霊感のあるトビオが東京に行ってからは、コウちゃんは昔みたいにリンコのそばで暮らしていた。あのあどけない笑顔で、あのぬくもりのこもったまなざしで、リンコのそばにいつもいる。リンコが編み物をしているときも、リンコが老眼鏡をさがしているときも、リンコが漬け物をつけているときも、ぜったいに離れようとはしない。こちらがあきれかえってしまうほど、コウちゃんはリンコに執着しているのだ。いまだに。その初恋は、かれこれ五十年近く経とうとしている。見かけによらず、コウちゃんはタフだった。
 リンコはいまも映画館を経営している。バイトさんをふたり雇っているから負担はないらしい。体調がよいときは、上映後にすこしだけ作品について語ったりもする。昔のケイタくんみたいに。
 あるうららかな春の午後、リンコは燦然として言った。
「ねえ、これから映画を観にいかない? 前から一緒に観たかった映画があるのよ」
 紅茶をひとくち飲んで、わたしはうなずいた。
 貸し切りの映画館というのは、すこしだけお姫さまのような気分にさせられる。わたしは客席のなかほどに腰をおろして、となりのリンコとそのとなりのコウちゃんにほほえんでみせた。
 館内の照明が最小限にしぼられる。ビー、と、にぶく懐かしい音が鳴りわたる。
 スクリーンに映像がうつしだされる。ニュー・シネマ・パラダイス、だった。リンコとケイタくん、そしてわたしも、たぶん、コウちゃんも、四人ともだいすきな映画。
 なんというささやかで、あまりに質実な人生だったろう。わたしはぼんやりと観ながら、思う。なんというささやかで、あまりに誠実な恋だったろう。四人ともひたむきで、一直線で、ゆえに、曲がり角を知らない。もうすこし無茶をしてみればよかったかもしれない、ときには曲がったり寄り道をしたりしてみれば、輝きがよりいっそう増したのかもしれない、と、ちょっぴり後悔もする。
 でも、映画の幕がおりると同時に、これはこれで立派な人生だった、と充足する。
 外に出ると、わたしもリンコもまっかな西日に目をほそめた。
 リンコはひたいのあたりに手をかざして言う。
「トビオの出産のときに、『誰か』があたしの手をそっとにぎりしめてくれた、って言ったことがあるでしょう。覚えてる?」
 わたしはゆっくりとうなずく。
 リンコはおだやかな笑みをたたえている。
「ケイタが亡くなったときも、映画館をまたはじめる決心がついたときも、みんなその『誰か』のおかげだと思うの。『誰か』があたしを見守っていてくれていたからこそ、あたしはどんなときもがんばれたし、けっしてくじけることはなかった。ねえ、あなた、もしかしてその『誰か』さんのことを知ってる?」
 わたしは首をかしげて、うっすらと笑った。コウちゃんを見やる。
 コウちゃんもかすかに笑っている。切れ長の目が、内緒だよ、と言っている。そして踵をかえすと、どこかに歩いてゆく。その背中は向こうの街並みが透けて見えるほど、ほのかなものになっている。
 わたしはあわててリンコの腕を引っぱると、コウちゃんのあとを追いかけた。考えるよりも先に身体が動いていた。
 焦燥とも狼狽ともつかない感情が、胸をやけにさわがせる。

 わたしとリンコは、コウちゃんに連れられて海までやってきた。揺れのすくない、やすらかに眠っているような海。ひんやりと冷たい、ただただ受け入れるのみの砂浜。遠く、観光船がほそながい澪をひいている。陽は沈み、夜の気配が間近に迫っている。
 来る途中に訝っていたリンコだったが、いまは靴を脱いで、少女のように水平線をながめている。
「肌寒いけれど、気持ちいいね」
 わたしは、そうね、と相づちをうつ。
 コウちゃんは波打ちぎわまでいくと、ゆっくりとふりかえった。わたしとは目があわない。リンコのことばかり、見ている。
 リンコは言う。
「ねえ、いま誰か、あたしのことを見ている?」
「そうかもね」
 わたしは肯定も否定もけっしてしない。
 コウちゃんは満面に笑みを浮かべた。そして身体ぜんたいが淡い光につつまれた。
 お別れだ、と、わたしは直観する。
 なあに、あれ。リンコはつぶやく。目の前の光は、彼女にも見えるのだ。
 コウちゃんは夜空に向かって飛んでいった。舞い上がる風船のような速度で。
 そして、とつぜんその光はこなごなに砕け散った。
 あたり一面に降ってくる。
 そこらじゅうがきらきらしている。まるで光の雪。
「きれい……」
 リンコはささやく。
「『誰か』さん、ありがとう。いままで、ほんとうに、ありがとう。あたし、あなたのおかげでここまでやってこれたわ。あなたのおかげで、しあわせを忘れなかったわ」
 目がうるんでいる。そよ風に白髪まじりの髪がなびいている。
 わたしはちょっとだけ、悔しいな、と思い、しばらくして、うらやましいな、とも思った。
 コウちゃんがつくったそのきらきらは、細かなちりめんじわを浮かべた海面に、すうっと消えていった。
 また、ふつうの夜がもどってくる。
 わたしは言う。
「リンコはとても愛されていたよ」
 そうね、と、リンコは口角をあげる。
「あたしは、愛されていたわ」
 海と空の境界はあいまいで、どこからどこまでが海なのか空なのかわからない。それを区別する線など最初からあっただろうか、と疑いたくもなる。暗がりになってしまえばなんてことはない、海も空も、とるにたらないものだ。
 恋にも友情にも愛情にも線をひく必要はなく、よい意味で、とるにたらないものだと思う。なんてことはなく、ゆえに、いとおしい。
 わたしは片想いでも、立派に恋をしていたといえるし、コウちゃんもおなじ気持ちだろう。
 損な性格だね、わたしたち。
 夜空にむけて、ひっそりと、そうつぶやいてみる。
 なにか言った?
 リンコは不思議そうな顔で見つめてくる。
 わたしは首を横にふり、かすかに笑った。
 まっくろい空の一部に、流れ星のようなものがきらりと走った。

(了)

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